2018/03/31

娘が小学生になるまでの6年間で、学んだこと大全(未完)

アーネが来月から小学生になります。
このブログ記事はアーネの誕生後(夫婦の育児情報共有サービスで起業したとき)から書き始めました。
その間、アーネの言動や行動に驚き、感心しながら、実にたくさんのことに気づかされ、学ばされました。その気づき、学びは子どもを育てることにも、私の仕事にも、とても役立っていますが、役立つということ以上に私を成長させてくれたと、強く感じています。
そこで、小学校に上がるのを機に、これまでアーネがどのようなものを与えてくれたのかを、振り返ってみることにしました。


0歳から6歳までにアーネが与えてくれた気づき、学びを付箋に書いて貼っていきます。

ブログはアーネが生まれてから書き始めましたが、この頃は、自分が起業した育児アプリやグッズの紹介、育児生活への意見やアイデアなどについて書いており、アーネから何かを学ぶということはありませんでした。なので、0歳の欄には付箋が貼られていません。

付箋は1歳から少しずつ増え、3歳~4歳でビッグバンが起きます。
この時期は会話が成り立つようになってきたということが大きな要因であったと思われます。
ちなみに、所々にある似顔絵は、この表をつくっている時にアーネが書いたものです。

パパ、これだけで泣きそうになるよ・・・。

アーネから得た学びや気づきには大きく2種類あります。

一つは、子どもの日常、遊びの中で見せる言動や行動から、子どもの思考や認知能力についての学び。
もう一つは、親としての子どもへの関わり方と、そこからプロジェクトを進めていく力や態度についての学びです。


前者は、類推(アナロジー)、分類、連想、メタファー、パターン認識、仮説、模倣、アフォーダンスなどのprimitive(原始的、未熟)な形として現れました。
特に印象的だったものに、以下のような出来事があります。

●大真面目で親バカな、娘のコミュニケーション力に関する考察。
アーネ1歳3ヶ月
当時、アーネが好んで聞いて踊っていた歌に、「ピッピッピ」というフレーズと振付がありました。散歩中に鳥が鳴いているのを聞いたアーネが、「鳥」という言葉を知らないのに、「ピッピッピ」という振付を私にして見せて、「自分は鳥を見たのだ」ということを、「本来はその意味ではないもの」を使って、伝えようとしました。これは、伝えたいことを表現するのに最適な手段を持っていないなら、ありあわせのもので代用してでも伝えるというような、原始的なコミュニケーションの力を感じさせました。


●子どもに完成品を与えることの良しあし
アーネ2歳6ヶ月
と木製の蛇口やガスコンロがついているママゴトセットの側でママゴトをしていた時、アーネに「水をくんできて」と言うと、ママゴトセットに向かわず、近くに倒れていた2Lのペットボトルに、正方形の積み木を置いて、「キュッキュ。ジャー。みずだよー」とやりました。
これは原始的なアナロジー、見立の力を感じさせました。



●えほんしんぶん
アーネ3歳11ヶ月
私が新聞を読んでいた隣に、アーネが絵本を抱えて隣に座ったので、何をしているのと尋ねると、「えほんしんぶんをよんでんだよ」と言いました。
絵本と新聞という一見(一般的には)結び付かないものをくっつけて新しい概念を生み出しました。これは原始的な情報編集力、イノベーションの力を感じさせるとともに、私に「3歳児にとってのニュースとはなんだろう?」という問いを与えてくれました。



他にも、推理、連想、メタファー、連想、模倣など様々な力がありますが、アーネが見せたこのような力は、洗練されているとはいえない「primitve(原始的、未熟)」なものです。
私たち大人はそうしたprimitiveな力を、色々な知識や技能を身につけ、リテラシーを身につけ、ロジカルさや効率性を求められるうちに、その力を放置してしまい、脳みその奥底に眠らせてしまっているように思います。
アーネのprimitiveな力を目の当たりにしたことは、私が漠然ともっていた「教育」というイメージを覆します。

何も知らない、何の経験もない子どもには、その空っぽの容れ物に、周りの親や大人が知識や体験を詰めこんでいくようなものかと思っていました。
この花はチューリップという名前だだとか。太陽は東から昇るとかいった、いわゆる知識は、従来の容れ物につめていく方式でも成り立つでしょう。
(これらにしたって、何かしら身体的な、複数の認知リソースを通じて知ったほうが良いのではないかと思いますが。)

しかし、子どもはそうした知識をよりよく活用するための、OSのようなものを元来備えているものだと強く思わせました。

アーネが5才の頃、小学校教員だった母から、education(教育)の語源は、「educacio」といって、「大きな壺の中から大事な物を取り出す」という意味だったということを教わりました。

アーネが見せるprimitiveな力と、「大きな壺の中から大事な物を取り出す」というeducacioという言葉の出会いは、私の子ども観(子どもの教育観)を決定づけたように思います。

それは、子どもには知識とは別に元来備わっているprimitiveな力があり、それは書物や映像などで教え込むのではなく、引き出し、育んでいくものである、というものです。
私は、このprimitveな力を引き出し、育むための方法、態度、考え方を「primitive arts」と呼ぶことにしました。

  • 異なるもの同士をくっつけて新しい概念を生み出す源泉となるアナロジーの力。
  • 自分の過去の体験から似たようなモノゴトを引っ張ってきて、問題にアテる力。
  • 常識的なカテゴリーをバラして、新しい文脈のカテゴリーをつくる力を。
  • 何かしらの制約下で、相手に何かを伝え、コミュニケーションをとろうと工夫する力。
  • 仮説や問いを生み出したり、常識を疑う元となる「なんで?」と感じる力や、好奇心、観察する力。
  • 問題を自分が解決しやすいように変形させていく力。

こうした力をどうやって育むことができるか?

  • 情報や物をいっぱいにしないこと。与えすぎない。
  • 大人が「こうだろう」とか「これが正しいのだ」と思う常識に嵌めない。
  • 大人も子どもと一緒にわからなくなる。
  • 同じことを繰り返すことを厭わない。
  • 急かさず、待つ。
  • 必要以上に干渉しない。
  • リテラシー偏重にならず、オラリティも意識する。
  • (同様に、身体知も意識する)
  • 使う認知リソースを変える
  • (例:言葉だけでなく、目に見えるモノで例える。数だけでなく量で捉える)

他にもいろいろな力とその伸ばし方があるのでしょうが、まだ十分に整理ができていないため、ここでは途中までのメモを残しておくことにします。

読みづらくて、すみません。

こうした力は、国語算数理科社会のように、科目を立てて教えられるものではない気がします。
先生もこうした力を育むための教育や訓練を受けてきていないでしょう。

現行の学校・教育環境でできない、そぐわないのであれば、家庭でやるしかない。
primitiveな力が、知識ではなくOSのようなものであれば、むしろ、日常生活の中で育んだ方が良いのではないかと考えます。

primitive artsは、子どものprimitivな力を育むために、私(親)が持つ方法、態度、考え方です。primitive artsは、私(親)とアーネやジージョ(子)のインタラクション。私が用意した環境と子どもとのインタラクションを通じてその効果を発揮するものと仮定します。私は子どもにどのようなprimitiveな力があり、それを育むための方法があるかを、これから先も考え、実践していきたいと考えています。

あと、これも大事なことなのですが、アーネの言動や行動に触れることなしに、私が上述の概念について深く知ることは、ほとんどありませんでした。
アナロジーなど聞いたことはあるけど、それがどういう意味なのかを学び、それを意識して仕事をすることなど皆無。
アーネの言動、行動に驚きや感心をし、なぜそういうことができるのか?を調べるうちに、それらの多くが認知科学、認知心理学に帰することを知りました。
子どもを通じて、自分がこれまで何となくわかったような気でいたことをちゃんと学び、興味関心のなかったことに目を向かわせられるという経験は、子どもは「わかり直しのパートナー」であるという想いを強く抱かせました。


・・・もうちょっと続きます。


アーネから得た学びや気づきの二つ目は、親としての子どもへの関わり方と、そこからプロジェクトを進めていく力や態度についての学びです。

これはアーネそのものから直接「ビビッ!」と感じて学ぶというより、アーネとの問答や遊びから私自身が「ハタ。」「ハテ?」と感じたことや、アーネへの対応の仕方について失敗し、反省したことなどから、自分の中で咀嚼したり、過去の似たような経験とが結び付いたりして、「あぁ、これはああいうことだ(こういうことだったか)」と、しみじみ学ぶという感じです。
(特に、失敗・反省したことから得たものについては、余計に身にしみます。)

この過去の経験というのは、ほとんどが仕事上のものですが、私はプロジェクトマネジメントを生業としてきたため、プロジェクトを進めるために必要な力や大事なモノゴトについての学びが多かったです。
未知を切り拓いていくための推論、問題解決、レジリエンス、情報編集といった方法や能力。情報の伝達や文脈の共有といった、他者とのコミュニケーション、態度など。実に多くの発見・気づきがありました。
印象的だったものに、以下のような出来事があります。

●イヤイヤ期から逃げずに向き合う10の方法
アーネ2歳3ヶ月
イヤイヤ期のアーネは何をするにもイヤイヤでたいへん困りましたが、私が何かしら投げかける際、「選択肢を与える」、「次の工程を見せる」、「了解を得る」ということをすると、すんなり受け入れられることから、プロジェクトにおいてもメンバーに対して同様の事を行う重要性を再認識しました。



●モモちゃんのわたあめから学ぶ、子供の「表象のズレ」
アーネ3歳2ヶ月
絵本に出てきたわたあめは棒がついていたのに、子ども会でもらったわたあめに棒がついていなくて、アーネが激しく泣きました。アーネの頭の中のわたあめと、現実のわたあめの違うことが、こんなにも泣かせるのかと思い、プロジェクトにおいてマネージャー、メンバー、ステークホルダー間で「表象」(プロジェクト工学でいえば勝利条件やプロジェクトの筋書き)を揃えることの大事さを再認識しました。



●子どもは本当に目クソを食べているのか?
アーネ5歳3ヶ月
子どもはなぜかメクソハナクソを食べます。ある朝、アーネがメクソを食べていると思い、「メクソ食べたらあかん」と言うと、「メクソが固いから、ツバでやわらかくしているんだよ」と言われました。
この出来事は、「プロセスをよく観察する」、「固定概念でモノゴトを見ない」ということを、反省とともに強烈に気づかせました。



●娘との三択クイズ遊びがイヤなんだが、“問題を選択式に置き換えら”れるようになるのは大事。
アーネ5歳9月
この時期、ダジャレなぞなぞ遊びをよくしていましたが、三択クイズもアーネのお気に入りでした。しかし、三択クイズはダジャレなぞなぞよりも自分の頭の中で考える要素が少なくなってしまいがちで、気に入りませんでした。しかし、なんだかよくわからない問題を、方向性を複数出す力は必要であると思い直し、三択クイズをする時は、私とアーネとで交代で三択クイズを出すようにしてきました。

●閉じた「なんで?」を使わない
アーネ6歳4ヶ月
子どもの「なんで?」には固定概念を覆したり、バラしたりして、そこから新しい価値に気づいていく可能性(気づかせる力)があります。しかし、その「なんで?」を、親は時として「理由を問わない“なんで”」として使ってしまいます。これはマネージャーやリーダーであっても同じことを無意識的にやっています。自分の固定概念の枠内でしか使わない「なんで?」は、百害あって一利なしです。


アーネが見せる行為や言動、アーネとのインタラクションを通じた以上のような出来事はまだまだ沢山あります。アーネが与えてくれた(時に私が引き起こしてしまった)こうした出来事は、私とってプロジェクトを進めていく上でのヒントをもたらしたり、再発見させてくれました。

プロジェクトを興し、進めていく。
すなわち、未知を切り拓いていくプロセスを、ざっくり示すなら下記のように表現できると思いますが、
  1. 好奇心を持つ
  2. 観察する
  3. 対象を動かす(或は自分が動く)
  4. 予想する
  5. 仮説を立てる
  6. 推論する
  7. 問題の性質や表現を変える
  8. 見通し、順序、関係を整理する
  9. 巻き込む、コミュニケーションをとる
  10. 実行する
  11. 振り返る、省察する
  12. 対応する
それぞれに仕事をする大人として、プロマネとして、親としてできること、気をつけることがあると思います。
  • 観察するときに、できるだけ知ったかぶりをしない。
  • 何でもかんでも教えない。問いを育む。
  • 固定概念から自由になることを意識する。
  • 三択クイズのような「どれかを選ぶ問題」は、自分でつくらせる。
  • 失敗は方法とセットにする。人格とセットにしない。
  • ママゴトをする時は、その設定を親子で共有する。
  • 自分の文脈と相手の文脈を合わせる。(相手の文脈を考慮する)
  • 使用する認知リソースを変えてみる。
  • 閉じたなんでを使わない、等々・・・。
これもまた、primitive arts同様、きちんと整理できていないため、メモを残すに止めます。


・・・さて。この記事もそろそろ終わりにします。

プロジェクトとは、「あらかじめこう」、と決められたことを行うものではありません。
プロジェクトは未知や変数を多く含むもので、事前に決めたプラン通りに進むことはまずありません。

人生とは大きくて長いプロジェクトであり、子どもはそのプロジェクトオーナーです。
その意味で、プロジェクトを進める力は、子どもが大人になった時だけでなく、子どものころから折に触れて育んでいく価値のあるものではないかという想いを強く持つようになりました。

拙著『予定通り進まないプロジェクトの進め方』で書いていることの多くは、アーネとの出来事がキッカケとなって得た気づき、知識、実体験から影響を受けており、実は子どもを育てている親のみなさんに向けても書いています。

そして、こうした力もまた、学校で教科を立てて学べるものではないと思います。primitiveな力のように、家庭で、日常生活の中で育めるのではないか。
そんなことを考えながら、アーネの小学校生活を支えていきたいと思います。

昨日は保育園の最終登園日でした。
ここまでアーネとジージョを見守り育ててくれた妻、家族、友人知人、関係諸氏に心からの感謝を込めて、親バカが最前線からお伝えしました。