頭のなかのものは見えないの?
今日はジージョ(5才)と二つのエピソードがつながって起きた発見について書きます。
一つ目のエピソードです。
ある日、とあるプロジェクトのプ譜をダイニングテーブルで書いていると、ジージョが私の傍にやってきて、
「ちず?」
と聞いてきました。
地図とは、目的地までの道のりやルートを示したり、目的地周辺の状態を示すものです。
ジージョにはプ譜が地図のように見えたということですが、ジージョが地図をどのようにとらえているかということを知りたくて、「地図ってどんなもの?」と聞いてみました。するとジージョはこんなふうに表現しました。
「ふなのりさんがこうやって見る」と言って、両手で地図を広げる仕草をしました。
「ここはタコがいるぞー、サメがいるぞーって言ってね」
「タカラがどこにあるとか」
「ココにつながってるぞ」
私はそんな地図をなにで知ったのかとたずねると、「サボさんとスイちゃんがやってた」と、Eテレの子ども向け番組で船乗りの宝探しごっこをやっていたであろうことを教えてくれました。
そして、頼んでいないのにジージョにとっての地図を色紙の裏に書いてくれたのです。
「どこにある」「つながってる」という言葉が地図の特徴をよく表わしており、プ譜にもそのような特徴がある。地図という情報の表現形式と通底するものがあるのだろうと理解することにしました。
二つ目のエピソードです。
とある仕事の状況を整理するために図を書いていると、ジージョがやってきて「なんでかくの?」と聞いてきました。「ずっと頭のなかで考えているとこんがらがってわからなくなるから、外に出して書くんだよ」と答えると、
「みえないの?」
と一言いったのです。これは「頭のなかのものが、見えないの?」という意味だと思うのですが、私にはなにか大事なことのように感じられました。
私たちは目で直接見ていないものでも、その姿を頭の中で「見る」ことができます。これを認知心理学の分野では「目で見える世界、心の中にある世界」といった対比の仕方をしているので、ここでもそれに倣って、「頭の」ではなく、「心の」と書くようにします。
私たちが目で見るとき、今自分がいるこの場のもの、文字通り「目の前」のものしか見ることができません。視線をずらしたり、後ろを向いたりすれば、その直前まで見ていたものは目に映っていないけれど、心の中で思い描くことができます。記憶がつくられています。
心の中で見えるものは、自分がいるこの場所を離れ、遠い場所・違う場所でも見ることができます。人にある行先への道順をたずねられて答えられるのはこの能力に拠るものです。
心の中で見えるものは、今を離れ、過去にも未来にも自分を運んで「見る」ことができるようにしてくれます。ただ、心の中で見えるものは、目で見るようには厳密で細部までつくられていません。
目で直接見るときは厳密で細部までわかる。でも、今、この場のものしか見えない。
心の中で見るときは厳密で細部までわからない。でも、どんな場所や時間のものも見える。
細部がわからないと具体的な手順や実際につくってみてどうか?ということはわからない。でも、今自分がいる場所でしか考えることができないと、未来のことを構想することができない。計画も立てられない。
そこで地図の出番です。
地図は、一人の人間が、一つの場所から見るには大きすぎる場所、はるかに広い範囲を抽象化して縮小し、世界のミニチュアを実在する画に描いたものです。
ジージョとの二つのエピソードから発見したのは以下のようなことです。
●プ譜について
・プ譜はプロジェクトを進めるための「地図」である。
・その地図は今はまだ直接目にしていない、未来の、訪れたことのない目的地への地図である。(つまり推論)
・直接目にしていないぶん、厳密で細部までつくりこまれていない。(ここがWBSと決定的に違うところ)
●子どものPrimitiveな力について
・自分がかつて見た子ども番組の宝の地図とプ譜の間にあった「地図」的要素がつながる力。
・「みえないの?」という一瞬おさないと感じる表現に本質的な何かが現れている。
●本は何度も味わうことがある、できる
ジージョのエピソードがきっかけで本棚の本を読み直した。本には赤線を引っ張ったりドッグイヤーをしているが、ジージョのエピソードから「ここがポイントだ」と感じた部分には赤線がまったくひっていなかった。
このようなことがあるので、本棚に本が残っていくのですが、妻には読まない本は捨てるよう言われており、このエピソードがそれへの対抗策となることを期待しています。
以上、親バカが最前線からお伝えしました。