アーネの掃除無精、ジージョのねりけし紛失、ジージョの音符を書く宿題問題をつなげる
ジージョの保育園で「ねりけし」が流行っているそうです。消しかすを集めてこねて丸めて、フンコロガシのように大きくするのです。クラスメイトが日に日に大きくしていくねりけしを見て、ジージョもまけじとねりけしづくりに勤しんでいるのですが、寝室へ行くのにも車へ行くのにも持っていくせいでか、何度かなくしてしまいます。なくすたびに泣きます。
なくすとイチからつくり直します。色の濃い棚に、2Bの濃い鉛筆でワシャワシャッと線やら丸やらを書き、それを消しゴムで消すのです。ねりけしをつくるために何かを書いて消すという行為が、私にはまったく不毛のことのように思うのですが、子どもには誰しもこのような時代があるだとうと思い、咎めもせずにいました。(ジージョのこの姿を見ていたとき、ママには怒られるから内緒ね、とジージョに言われました)
何度かねりけしをなくしてからのある日の晩。アーネが宿題をしていて間違ったところを消す姿を遠目で見ていたジージョが、「けしかすちょうだいね!」と声をかけていました。これはうまいやり方だなと感心しました。
Aにとって不要なものが、Bにとっては必要なものになる。
アーネは日ごろ片づけ・掃除に注意がいかず、消しかすを机に放置しては、私にちゃんと掃除するよう小言を言われているのですが、アーネにとって面倒な消しかすの掃除を、ジージョが喜んで集めて(片づけて)くれる。
ジージョはママに隠れて消しかすづくりをしなくても、労せず消しかすを手に入れることができる。
完全なwin-winの関係、循環ができあがっています。自然界にも経済にもこれと同じ循環がありますが、こんな身近で目の当たりにするとは思いませんでした。
「同じ消しかすでも、人によって意味が変わる」
こんなことが頭に浮かんだとき、ハタと気づきました。
消しかすに価値があるのなら、消しかすをつくることにも価値がある。つまり、消しゴムで消すという行為の意味が変わります。
これが、「ジージョがピアノの音符を書く宿題で、間違った音符を消すのが面倒だから泣く」という問題につながりました。
間違って消すことはイヤなものではない。間違ったところを消せば、ねりけしをつくる材料になる。
このことに気づいた私は、ジージョが別のことで字を書き間違えて「まちがえちゃったぁ」と残念そうにしているのを見て、試みに「消したらねりけしの材料になるやん」と言ってみると、ジージョはほんの一瞬きょとんとした表情を見せてから、「・・・ウン!」と張り切って間違えた字を消し始めました。