わが子に貼ってしまったレッテルをどう剥がすことができるのか?

 ジージョがみせる言動や行動のなかで、ときどきイラッとしたりカチンとしたりしてしまうことがある。

気に入らないことに脊髄反射して、声を荒げてしまったり怒ってしまったりすることがある。


アーネのときも同じようなことはあったのだと思うが、長年続けている日記を読み直しても、

「ジージョに怒ってしまった」といった一文をしばしば見かける。


なぜこんな自分になってしまっているのか、わからない。


仕事で困ったり悩んだりしていて、鬱屈としたり焦ったり悶々としたりしていることが増えたからなのか。

気持ちの余裕がなくて、言動や行動をひとまずそのまま受け容れることができないからなのか。

根本的な、直接的な、間接的な原因がなにで、どうなっているからなのかもよくわからない。


朝、ジージョは起きるとプンスカしたり泣いたりする。


隣で寝ている大好きなママが早番の仕事で、自分が目覚めたときにいない。

かけていた布団やタオルケットがぐしゃぐしゃになっている。

理由はいくつかある。


そうした理由で怒ったり泣いたりする姿が、目に入り耳に入った瞬間イラッ・カチンとしてしまう。

あの手この手で話しかけたり一人でおどけたりして気分を変えようとして、それでうまくいくこともあるが、うまくいかないこともある。

失敗するととても疲れる。

ママがいないからというのはわかるが、布団やタオルケットがぐしゃぐしゃなくらいで…、意味わからん…、となってしまう。


こういうことがしょっちゅうあって、「しょうもないことで癇癪を起こす」というレッテルをジージョに貼っていたように思う。

思う、というのは「レッテルを貼っている」という自覚がなかったからだ。



2ヶ月くらい前に、若松英輔さんの『14歳の教室 どう読みどう生きるか』という本を読んだ。そのなかに、こんな一文があった。


先入観とは「分からない」という状態にいることができない人が、拙速に下す判断だといえそうです。


これを読んだとき、真っ先に自分がジージョに貼っているレッテル、先入観を強烈に自覚した。

これは自分のことだと感じて、反省した。

これが11月18日のこと。


11月23日。

ジージョがなにを思ってかしらないが、僕の布団とタオルケットをきれいに整え、パジャマもきれいに畳んでくれていた。


その前日はジージョとの間にはいいこともわるいこともなかったように思う。

翌朝、ジージョにお礼を言ったら、その日の晩もベッドメイキングすると言った。

前日はその場にいなかったのだが、この日はジージョといっしょにいた。

ジージョがタオルケットをバサッとひとふりし、ベッドの四隅にピシッと揃えて、保育園で折り紙をするときに使う「手アイロン」でしわをとる。

その上に布団をかける。

このベッドの四隅にタオルケットを合わせる行為を見た瞬間だったと思うが、こういうことにこだわるジージョだから、自分の布団やタオルケットがぐしゃぐしゃなのがイヤなんじゃないかと感じた。


そう感じた瞬間、先入観が壊れたように感じた。

ガラスが割れて崩れ落ちるような感じだった。


ジージョの行為が、自分にとって嬉しいものだったからこのように感じたのかもしれない。

勝手な自分好みの解釈をしているのかもしれない。


後日、ジージョが朝起きて、しくしくと泣いていた。

早番で妻がいないのが理由だったからかもしれないが、布団がぐしゃっとしていたので、「ジージョに教えてもらった方法で布団なおすで~」と言って布団とタオルケットを整えた。


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