なぜ、オープンな場での発言・質問を避けるのか?
2018年3月27日、「働き方改革のルル三条」というテーマの勉強会を企画し、プロノイアグループのピョートル・フェリークス・グジバチさんに、ドコモ・イノベーションビレッジで「働き方改革を組織論から語る」というテーマで講演を頂いた時のことです。
組織論についての講演ということで、昨今注目されているリーダーシップにも言及されたところがありました(ピョートルさんには『0秒リーダーシップ』という著書もあります)。
ピョートルさんの言うリーダーシップとは、当日の講演では以下のようなことを指していたと思います。
組織やチームのために必要だと思ったら、反発や批判を恐れず、手を挙げ、まわりのみんなを動かしていく。そんな風通しのいい空気を、組織はつくっていかなくてはならないというメッセージを、ピョートルさんは講演で発し、参加者のみなさんは熱心にメモを取っていたように見えました。
講演終了後、10分ほど時間に余裕があったので、ピョートルさんから何か質問があればどうぞと投げかけがありましたが、誰も手を挙げません。
これにとてもモッタイナイと感じると同時に、残念に思いました。
「自ら手を挙げて動く。率先して自分から行動する」というピョートルさんのメッセージが届いていないと感じられたのと、講演終了後に長蛇の名刺交換の列をつくり、そこで長々と自分の質問をぶつけると予想されたからです。
われながら大人げないと思いながら、「みなさんがこの後名刺交換の列をつくって、ピョートルさんに質問をすると思う。そういうところから変えていこうというのが、今日のピョートルさんのメッセージだったとは思いませんか?」と会場に投げかけてみました。
私は勉強会を企画し、セミナーに登壇し、他の講座に参加する度にいつも思いますが、Q&Aタイムように、オープンな場での発言・質問を避けるのは、いったいなぜなんでしょうか。
発言や質問が出ないというのは、受講のキッカケとなった何らかの問題意識やのっぴきならない課題が、参加・受講中に解消したということだと思います(上司に言ってこいと言われて・・・という場合は論外)。でも、そうした課題が解消されていないなら?講座終了後に講師をつかまえて質問をする?でも、その講師がすぐに会場を後にしなければならないとしたら?
講師をつかまえることができないということが予めわかっていて、のっぴきならない課題が解決されず、その課題解決が自分の進退に重くのしかかっていれば、こうしたオープンな場でも発言・質問は厭わないでしょう。そうでもなければ、発言・質問をしなければならない必然性はありません。
私の挑発的な投げかけの後、何名の方の手が上がりましたが、この講演会の後、参加者の方から以下のようなメールが私に送られてきました。
このように、発言・質問をしたいことがありながら、何らかの理由によってそれができないのだとしたら、どうにかして解決したいと思います。
私はオープンな場での発言・質問というものは、「その場を共にする人々への貢献」と考えます。それは講座であれば受講者だけでなく講師にも。学校であれば同級生だけでなく教師にも貢献します。この考えのもと、私が登壇するセミナーでは、「MVQ」という仕組みをよく使っています。これは、見ず知らずの人びととわずか数時間しか一緒に過ごさず、まだ十分な「何を言っても大丈夫」という信頼や安心感がない環境下でも、全員が一度は質問を発し、その中から最も聞きたい質問を選ぶというものです。
(参考 『MVQのすすめ ~参加者満足度を上げる質問タイムの新システム』)
これは仕組みで解決する一事例ですが、アーネが小学校に上がってからは、質問をするという行為に対する子どもの概念を変えていく必要があると感じています。
私たちの学校生活を振り返ると、手をあげるという行為は、正解がわかっていなければ行わないものだったと思います。教師も「これわかる人?」という投げかけをして、手を挙げさせていたのではないかと思います。子どもからすれば、回答して間違っていれば恥ずかしく、自分の無知をさらけ出すようなことはしたくないでしょう。大人だって同じです。
その間違いを、「間違っています」とだけ言って閉じてしまってはもったいない。間違った回答に至るまでの考え・推論の過程を素材として、みんなで共有する。そういう考え方、推論のプロセスがあるということを知ることは、ただ正答だけを知るよりも有益であるのではないかと思います。
この他、手を挙げる行為を、正答を述べるためだけでなく、「自分はこう考えるけど、この考え方を先生(教師)や(クラスメイトの)みんなはどう思う?」といったことを確かめ、投げかけることができれば、その場で共有される考えのバリエーションはさらに豊かになるのではないでしょうか。
また、こうしたことを行うためには、自分の考えや疑問を整理し、質問や意見としてまとめ上げる力が欠かせません。信頼や安心感のない環境であれば、この力はなおのこと重要になってきます。
質問をつくる力については、『なんで?プロジェクト』を通じて養っていこうとしていたり、質問に関する他の記事でも触れているのでここでは割愛しますが、今年7月に以下のツイートが話題になっていたのを紹介して、この問題の根深さをあらためて感じつつ、今後の子育てとセミナー活動に精進して参る所存です(うまくまとまらないので、これでおしまい)。
組織論についての講演ということで、昨今注目されているリーダーシップにも言及されたところがありました(ピョートルさんには『0秒リーダーシップ』という著書もあります)。
ピョートルさんの言うリーダーシップとは、当日の講演では以下のようなことを指していたと思います。
- 自ら手を挙げて動く。率先して自分から行動する。
- リスクを取って新しいことを始める。従来の自分の枠を超えて新たな一歩を踏み出す。
- 自分が行動することで、周囲に影響を与えていく。
組織やチームのために必要だと思ったら、反発や批判を恐れず、手を挙げ、まわりのみんなを動かしていく。そんな風通しのいい空気を、組織はつくっていかなくてはならないというメッセージを、ピョートルさんは講演で発し、参加者のみなさんは熱心にメモを取っていたように見えました。
講演終了後、10分ほど時間に余裕があったので、ピョートルさんから何か質問があればどうぞと投げかけがありましたが、誰も手を挙げません。
これにとてもモッタイナイと感じると同時に、残念に思いました。
「自ら手を挙げて動く。率先して自分から行動する」というピョートルさんのメッセージが届いていないと感じられたのと、講演終了後に長蛇の名刺交換の列をつくり、そこで長々と自分の質問をぶつけると予想されたからです。
われながら大人げないと思いながら、「みなさんがこの後名刺交換の列をつくって、ピョートルさんに質問をすると思う。そういうところから変えていこうというのが、今日のピョートルさんのメッセージだったとは思いませんか?」と会場に投げかけてみました。
私は勉強会を企画し、セミナーに登壇し、他の講座に参加する度にいつも思いますが、Q&Aタイムように、オープンな場での発言・質問を避けるのは、いったいなぜなんでしょうか。
発言や質問が出ないというのは、受講のキッカケとなった何らかの問題意識やのっぴきならない課題が、参加・受講中に解消したということだと思います(上司に言ってこいと言われて・・・という場合は論外)。でも、そうした課題が解消されていないなら?講座終了後に講師をつかまえて質問をする?でも、その講師がすぐに会場を後にしなければならないとしたら?
講師をつかまえることができないということが予めわかっていて、のっぴきならない課題が解決されず、その課題解決が自分の進退に重くのしかかっていれば、こうしたオープンな場でも発言・質問は厭わないでしょう。そうでもなければ、発言・質問をしなければならない必然性はありません。
私の挑発的な投げかけの後、何名の方の手が上がりましたが、この講演会の後、参加者の方から以下のようなメールが私に送られてきました。
- 先日の講演は、当方の期待する内容とはいささか違うように感じたのが正直なところ。
- ピョートルさんの講演内容は精神論であるように感じられた。
- 当方の狙いは、生産性向上にあたっての指標を何に定めるか?ということだった。
- 個々人や会社、部署等のKPIやOKRの設定と同時に、生産性の指標についてお話が伺えればよかった。
これには閉口しました。私はまたも大人げないなと思いながら、「このことを当日ピョートルさんに質問されればよかったのではないでしょうか?」と返信をしましたが、当然のごとくこの方から返信はありませんでした。
このように、発言・質問をしたいことがありながら、何らかの理由によってそれができないのだとしたら、どうにかして解決したいと思います。
私はオープンな場での発言・質問というものは、「その場を共にする人々への貢献」と考えます。それは講座であれば受講者だけでなく講師にも。学校であれば同級生だけでなく教師にも貢献します。この考えのもと、私が登壇するセミナーでは、「MVQ」という仕組みをよく使っています。これは、見ず知らずの人びととわずか数時間しか一緒に過ごさず、まだ十分な「何を言っても大丈夫」という信頼や安心感がない環境下でも、全員が一度は質問を発し、その中から最も聞きたい質問を選ぶというものです。
(参考 『MVQのすすめ ~参加者満足度を上げる質問タイムの新システム』)
これは仕組みで解決する一事例ですが、アーネが小学校に上がってからは、質問をするという行為に対する子どもの概念を変えていく必要があると感じています。
私たちの学校生活を振り返ると、手をあげるという行為は、正解がわかっていなければ行わないものだったと思います。教師も「これわかる人?」という投げかけをして、手を挙げさせていたのではないかと思います。子どもからすれば、回答して間違っていれば恥ずかしく、自分の無知をさらけ出すようなことはしたくないでしょう。大人だって同じです。
その間違いを、「間違っています」とだけ言って閉じてしまってはもったいない。間違った回答に至るまでの考え・推論の過程を素材として、みんなで共有する。そういう考え方、推論のプロセスがあるということを知ることは、ただ正答だけを知るよりも有益であるのではないかと思います。
この他、手を挙げる行為を、正答を述べるためだけでなく、「自分はこう考えるけど、この考え方を先生(教師)や(クラスメイトの)みんなはどう思う?」といったことを確かめ、投げかけることができれば、その場で共有される考えのバリエーションはさらに豊かになるのではないでしょうか。
また、こうしたことを行うためには、自分の考えや疑問を整理し、質問や意見としてまとめ上げる力が欠かせません。信頼や安心感のない環境であれば、この力はなおのこと重要になってきます。
質問をつくる力については、『なんで?プロジェクト』を通じて養っていこうとしていたり、質問に関する他の記事でも触れているのでここでは割愛しますが、今年7月に以下のツイートが話題になっていたのを紹介して、この問題の根深さをあらためて感じつつ、今後の子育てとセミナー活動に精進して参る所存です(うまくまとまらないので、これでおしまい)。
https://t.co/qoXkGgv4Xe— Satoru Ueda (@Sat_U) 2018年7月25日
これ、洒落にならない。添付スライドは私の実体験。2005年、横浜にリナックス開発者を招いた組み込みシステム関係のイベントで海外から来た講演者を激怒させてしまったのは事実。#celfjp pic.twitter.com/CYOnKKhw6O