自分で作問することはできても、本当に“わかって”いなければ意味がない
小2のジージョが算数の時計の問題に手こずっています。
「○○さんの家から公園まで15分かかります。○○さんの家を10:10に出発すると、何時に公園に着きますか?」
「○○さんがスーパーへ買い物へ行くために、10:30に家を出て10:50にスーパーに着きました。家からスーパーまで何分かかりましたか?」
といった時間の足し引き?の計算がなかなかできません。
ジージョのもっている教科書やドリルを使っても、アナログ時計を持ってきて説明しても「わかった!」となりません。
私はうまく教えることができず、ジージョも正答できない時間が続くとくじけてくるので、何かもっと楽しく前向きに取り組めるようにすることができないか考えて、ジージョがことのほか楽しみにしている夏休みの旅行を題材にして、ジージョに自分で問題をつくってもらうことにしました。
6:30に起床して、6:45に家を出る。その間の時間は何分?
7:15に電車に乗って、1時間後に旅館に着く。旅館に着いたのは何時何分?
ジージョがつくった問題を私が解いて、○か✕かをつけてもらおうという作戦です。
私はいくつかの問題をわざと間違えて、ジージョに答え合わせしてくれる?と解答用紙を差し出したところ、ジージョは「はいは~い」と言いながら、自分がそれまで取り組んでいたドリルの答えが載っているページを開こうとしました。
そこでハタと気づいたように、
「パパ、ジージョわからないよ。答えがない」
と言ったのです。
ジージョがこれまで解いてきた問題には答えがあるけど、自分でつくった問題には答えがない。
合っているかどうかは自分が考えないといけないということに、ジージョはこのとき初めて気づいたのです。
ジージョの反応が私にはとても新鮮で、同時に反省しました。
ジージョは私の回答が正解か間違っているかを判断できず、この作戦はうまくいかなかったのです。
問題はなんとなくつくることはできても、問題の原理原則が本当にわかっていなければ正誤を判断できません。
自分の好きなことや楽しみなことを題材にすれば一生懸命、何が何でも考えるだろうというのは浅はかな考えでした。
ジージョ、ごめんな。