あの日、どうやったらキャッシュカードのドブ落ちを回避できたのか?

人は何かを失って初めて、自分の意思決定を振り返る。

「あのとき、こうしていれば」

「なんで、あんな選択をしたのか?」

そんな反省を行うのは、ほとんどの場合、失敗した後だ。うまくいったときに振り返ることはほとんどない。

失敗する前に、「未来でこんなこが起きるから、その選択はしないでおこう」とか、起こり得るリスクを想定して意思決定を慎重に行うということは、その経験がなければ不可能に近いのだ。

ところで私は先日、アーネとジージョの二人を連れて遊びに出かけた公園で、キャッシュカードをドブに落としてしまった。


5月の末、その日埼玉県北部は真夏日でずいぶん暑かった。公園でサッカーをしていたアーネがのどの渇きを訴え、私は財布から千円札を手渡し、公園のすぐ傍にある自販機で飲み物を買ってくるようアーネに言った。財布には小銭がなかった。私の財布の小銭入れはほとんどスペースがないせいもあって、普段は極力カード払いにして小銭を持たないようにしている。

アーネが自販機に向かおうとしたとき、ジージョが自分も行くと言い出した。アーネは4年生で、一人で行かせても不安はないが、ジージョと一緒となると不安が残る。ジージョがだだをこねるのも嫌なので、結局私がジージョの手を引き、三人で自販機に向かった。

JRやメトロ駅構内の自販機と違い、私の暮らす街の自販機はICカードに対応していない。ところが、その自販機はICカード対応していた。前述したように、私は小銭を持ちたくないので、アーネに渡した千円札を財布に戻し、Suicaで飲み物を買った。このとき、財布からカード類がこぼれ落ち、メインバンクのキャッシュカード1枚だけが、きれいにスッとドブに落ちていったのだ。

前置きというか経緯が長くなってしまった。このキャッシュカードのドブ落下事件には、4つの分岐点があった。図を拡大してご覧頂きたい。


そもそも、公園に行くときに水筒を持っていくチャンスがあった。それを「重いから」と私が持っていかなかったのだった。
アーネが自販機にいくとき、千円札ではなく、財布を渡していれば、ドブ落ちを回避できたかもしれない。
ジージョが自分も自販機に行くというのを、他の遊びで釣って、行かせなくするという選択肢もあったが、それを私が面倒がった。
自販機でSuicaが使えるとわかっても、アーネに渡した千円札を使えば、小銭はポケットに突っ込んで、財布をポケットから出すことがなかったかも知れない。
なのに私はこの分岐点でことごとく間違った意思決定をしてしまったのだ。


悩ましいのは、意思決定はそのときの状況だけではなく、過去の経験の積み重ねやポリシー、価値観などが影響を及ぼすということだ。
私にはこの日に至る「過去」の間に、ドブ落ちを回避するチャンスがあった。
財布からカード類がこぼれる経験を何度かしていて、財布を買い換えるという機会があったのに、それをしなかった。小銭を持ちたくないというポリシーがなければ、(それは遡れば財布を買い換えていれば)問題は起きなかったかも知れない。


そもそも公園に行かないという選択肢がなくもなかった。

未来を予測することは難しい。間違いのない意思決定をし続けることも難しい。

しかし苦い経験をした私は、今後公園に限らず、子どもと外出する際は必ず水筒を持っていくことだろう。ひょっとしたら財布を買い換えるかもしれない。

経験とは、皆が失敗につける名前のことだ。

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