こうなったのは自分のせいだと言われたら、自己効力感も自己決定性も育たない


2019年、アーネが小1のときに、参観会で「きらきら星」の合奏をすることになり、アーネがピアノの演奏をすることになりました。
アーネはピアノ教室に通っており、ピアノの演奏をすると決まった数ヶ月前に、やさしいレベルの、練習としての「きらきら星」を弾いていました。そのため、「きらきら星」を合奏するにあたり、ピアノ演奏役を先生が募集したとき、自分にできる!と思って手を挙げたのだそうです。

そうして合奏用の楽譜を持ち帰って見てみると、練習曲のものよりずっと難しい。アーネの今のレベルではちょっと手が出ないんじゃないかと思うようなものでした。
ピアノができる妻が「今日から特訓ね・・・!」と、アーネのために横について指導しますが、難しさにアーネはくじけてしまいます。
本番まで10日あまり。
弾けるところと難しいところを分けて、ここは何日までにできればOK。ここができたら、次はここを弾こうというふうに、簡単な計画を立て、あとはちょっとでもできるようになったら「すごい!」と励まし、これができたらヤクルトを飲もうと物で釣り、どうにかこうにか少しずつできるようになってきました。
数日経って、ピアノ教室の先生に「きらきら星」の練習を頼んだところ、「これは難しいわ」となって、アーネのレベルに合わせてアレンジしてもらいました。
そして、このアレンジでもいいかを担任の先生と交渉し、本番に臨むことに。
何カ所かつまいづいたけれど、弾き終えることができました。

このエピソードから得た教訓は、いくつもあります。

自分が本当にできるかどうかは楽譜を見てから決めようね、というのは些細なことで。
どちらかというと支援する者として得るものがありました。

アーネは楽譜を見ないという軽率さがあったとしても、自分にはできると思って手を挙げたことがまず素晴らしい。
でも、自分の今のレベルでは弾くのが難しく、特訓しなければならず、途中で挫けそうになったとき、支援するもの・教えるものが、

「自分が選んだんだから(特訓するのは)しょうがない」

と言ってしまってはいけないのだと思います。
もしこのような言葉を口にして特訓させ、仮に特訓が実らず、本番で大失敗してしまったら、アーネは二度と自分で挑戦するということをしなくなるんじゃないでしょうか。
大げさにいえば、目の前の問題を自分の力でうまく解決できそうだという自己効力感を壊しかねない。自信や信念なくして、問題解決に向けて積極的に行動できるようにはなりません。
自分で納得して行動に向かう自己決定性にも影響を与えそうです。自分が軽率に決めたことから自分が苦労して、周りのものにあーやこーや言われ、挙句の果てには「そうなったのはおまえのせいだ」と言われる。
周りの人間、支援する人間としては、そんな自己責任を当事者に与えるのではなく、困難な状況を策を練り、励ます存在でいたいと思う次第であります。

そのためにも、自分が困ったときに、逡巡しながらもなお、助けを求められる関係性をつくっておかなければいけないと、親バカが最前線から思いました。

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