間違っている、という基準

ジージョ(4才)が平仮名を見よう見まねで書き出したので、平仮名の練習帳を買い与えたら、アーネがジージョの隣について、先生役をしてくれます。


たかだか8年しか生きていないのに、「こうせねばならない」「これが正解」「こういうのはダメ」という価値観がどのように刷り込まれたのかわかりませんが、字の枠からはみ出したり、書き順が違うと、
「ジージョ、これはちがうよ」
「ジージョ、これはこう書くんだよ」
と、“まちがい”を糺してしまうのです。


知識の正しさという評価軸しかなければそれでいいかも知れません。
ただ、それに取り組んでいるジージョの年齢や、今日ジージョが初めてこういうドリルに取り組んでいることなどを鑑みれば、正しさよりは励ましのほうが望ましい。ジージョからすれば、うまくいかなくて当たり前。
育てるということは、正しいか否かだけの軸ではどうにもならない。

「アーネ。ジージョは初めてだから、じょうずに書くよりは、励ましたってな」

と言うと、

「ジージョ、じょうず!次はもっとじょうずに書いてごらん!」

と、アーネなりに励ましていました。

アーネはその後、ジージョの練習用にと、紙と色鉛筆で筆箱をつくって、鉛筆と消しゴムをプレゼントしていました。



ジージョ、よかったな。アーネ、ありがとうな。

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