aのためにふれたxが、なぜbの役に立つのか? bの役に立つxをどう持ってくるか?
自分が携わってるプロジェクトが複数あるとして。
プロジェクトaのために読んだつもりの書籍xに、プロジェクトbに役立つ内容が書かれていることがよくある。
その内容は、プロジェクトbを大いに助けてくれます。
わが子の発達の不思議について知りたくて読んだ認知心理学の本に、プロジェクトマネジメントに役立つ内容が書かれていることがある。
その内容は、ちょっと役立つどころでなく、私の考えを大きく飛躍させ、書籍を出すまでに至りました。
aの役に立つと思ってふれたxが、bの役に大いに立つ。
aに直接的に役立つと思われていた以上の効果が、bにもたらされる。
この現象をなんと呼んでいいのか、ずっとわからないでいます。
書籍xで書かれている内容には、実はプロジェクトbに関することが書かれている―、ということを知らなかったという無知のせいなのか。
書かれている内容に自分がアフォードされてなのか。
アナロジー力を発揮して一見関係のないbに橋を架けたのか。
この現象を考えるには「時間」についても考えねばなりません。
スティーブ・ジョブズのカリグラフィーとマックのフォントのエピソードが有名です。
ジョブズが偶然受けたカリグラフィーの授業(x)は、面白かったけれど、その時はそれで終わった。
その10年後、マッキントッシュの設計(b)をしていたとき、カリグラフィーの授業を思い出し、あの美しいフォントを生みだした。
今やっていることが、その意味がわからなくても、思わぬ形で次につながることがある。
これをジョブズは「connecting the dots」と表現しました。
美しいフォントをつくりたいと思って、カリグラフィーを学んでいない。
aのために学んだxが、bの役に立つ。
bに役立つと考えたわけではない、xが時を経てbの役に立つ。
これは「連想」と「暗示」という言葉でくくることができるように思います。
最短効率主義者からすれば、非常にまわりくどい、無駄足をふんでいるように映るかも知れませんが、私個人からすれば結果的に知識が豊かになっていると感じます。
(最近の流行でいえば、リベラルアーツはこのようにして身につけていくのかという気がします)
話を戻します。
外山滋比古氏は本の読み方として、「α読み・β読み」を提唱していました。
既知の知識に基づいた読みをα読みといい、未知の文章を読むことをβ読みというそうです。
でも、このβ読みするための書籍は、どうやって引っ張ってくるんでしょう?
『勉強の哲学』(千葉雅也著)には、千葉氏個人の学びについて、下記のようなエピソードが紹介されていました。
1.
●絵がうまくなりたくて、筋肉について勉強する(解剖学)。
●「◯◯筋」といった筋肉の知識はついたが、絵がちょっとマシになったかならないかで飽きてしまった。
2.
●ここで得た解剖学の知識が、後にジムで筋トレするのに役立った。
●自分の筋肉をパーツごとに意識し、効果的に各筋肉に負荷をかえればよいか考えられるようになった。
3.
●その後、絵を描こうとすると、以前よりも筋肉の形が細かくイメージできるようになった。
絵がうまくなりたいという目的(a)のために学んだ解剖学(x)が、その時はそれで終わって、後に筋トレ(b)をするときに役立っています。
千葉氏は「一見、別々のことのように見えても、実は“似たこと”として考えられる、という発想を持つ」ことの面白さ、大切さを述べているのですが、絵を描き始めた(a)時点で、筋トレ(b)をすると計画しているわけではないこと。bのためにxを学んだわけではないことについては言及されていません。
この現象を帰納的にとらえて、
「今携わっているaに役立つものを探しあてるには、一見関係のなさそうなbのために役立つxを持ってくればよい」
と表現できなくもないですが、その「一見関係のなさそうなb」に出会えるのかは運やセレンディピティの賜物のように思います。
マーケッターとして成長(a)したくて、マーケティング論(x1)を学ぶ。これは至極真っ当ですが、マーケッターとして成長するために統計学や社会学(x2)にもふれてみよう―、というのは、あまり飛躍的な成長、考えを大いに前進させられるものではないように思います。
(これは個人の捉え方一つなので、一概に飛躍があるないとは言えないのですが)
先ほど、一見関係なさそうに見えるaとbという書き方をしましたが、aとbの間には因果がありません。
この因果がない、因果が成り立っていないものを認識することが、私たちにはとても難しい。
『動的平衡ダイアローグ』(福岡伸一)に、因果についての文章がありました。
仏教の経典には、下記の文章があります。以下、引用します。
初期仏教の経典で「縁起」について語った部分に、「此れ有れば彼有り、此れ生ずるが故に彼生ず。」「此れ無ければ彼無し、此れ滅するが故に彼滅す。」とある。二つの文の前半部分はどちらも「同時」をいっていて、後半部分はどもに「異時」、つまり因果律を表している。仏教では、因果の存在を一方で認めつつ、一方では、同時に起こる関係性にも目を向けてきた。この「同時に起こる関係」というのは、科学では扱えない。例えば、「自分がある問題を考えていたとき、たまたま別件で訪ねてきた人が、なぜかその問題に触れる」といった現象は説明がつかない。因果律だけで世界を見る人にとって、それが単なる偶然ということになるだろう。
この「同時に起こる関係」のメカニズムがわかれば、bの役に立つxをa抜きに。aの役に立つyをb抜きに持ってくることができると思うのですが、この現象に関する書籍などご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただきたく存じます。