オープンプラットフォーム「いのちの授業」プロジェクト が始まります。
私には6歳(アーネ)と2歳(ジージョ)の娘がいます。
アーネが4歳の時、何の話の流れから、
「アーネは、アーネのことがだいすきだよ」
と言ったことがありました。
この言葉を聞いて嬉しいというか、安心したというか、ホッとしたというか、大丈夫だと感じたというか、適切な言葉が見つかりませんが、良い気持ちになったことを覚えています。
それは、何かの本で読んだからなのか、これまでの人生でそう感じていたからかわかりませんが、
私の生業であるプロジェクトマネジメント(特に新規事業など、新しいこと、未知なことに挑む場合)において、自分のことが好きでなければ、前向きに取り組んでみようと思えないし、自分にはできると思えないからです。
自己肯定感、自尊感情という言葉で表現されるそうした気持ち、姿勢を育むにあたり、私たち夫婦は何がしかのリストをもって、アーネに相対してきたわけではありませんが、
- アーネが興味をもってやってみたこと、「やりたい」と思ってやってみたことを止めない。
- それで失敗したとしても責めない。
- 失敗はやり方が悪かった・適していなかっただけで、やり方を変えればできることを教える。
といったことだけは意識してきました。
また、私はアーネが見せる振る舞いや言動に驚かされることがしばしばあり、その理由を調べるうちに、自分の仕事のプラスになるような発見に多々つながっており、アーネの存在が私にとっていかに大切で、ありがたいものであるかということを常々口にしていました。
今年3月に上梓したプロジェクトに関する拙著『予定通り進まないプロジェクトの進め方』も、アーネを通じて得た認知科学、認知心理学から多くのものを得ています。
そんなアーネが6歳になる前後から、自分を卑下するような発言をするようになりました。
サンタさんへの手紙に、クリスマスプレゼントに欲しいキャラクターのおもちゃを書こうとして、妻が、「○○○(ピアノの練習とかだったと思います)ができたらね」と言うと、
「どうせアーネはできないからな・・・」
と口にしたのだそうです。
「よし、がんばろう!」という気持ちにならないのだということを妻が嘆いておりました。
(何かの交換条件のような言い方が適切であったかという疑問はありますが)
また、工作などをしていて、自分の思ったようにいかないと、「キーッ」となるか、目に涙をためて、途中でやめてしまうことが増えました。
何かがうまくいかない、できないときに、その原因を「自分に向けて」しまうようです。
そんな時、
「何をしたかった?」
「どこがうまくできなかった?{→それは難しいから一緒にやってみよう。or この方法を試してみよう」
「どこまでできた?(→そこまでできたら十分すごい!)」
といった対応をしてきたつもりです。
また、運動会が近づくと、リレーの練習で自分のチームがよく負けているのを、「アーネがバカだから」と言ったのでそうで、これにはちょっとショックを受けたのと同時に、バカの意味がわかってないんだなと(この捉え方が正しいのかはわかりません)も思いました。
親としては、「うまくいったこと」、「よくできたこと」に対しては、ただただ褒めて伸ばすこと(及びそのプロセスを評価すること)を信条に育ててきましたが、上述したように、「(自分が思ったように)うまくいかない」時や、「失敗してしまった」時に、親ができることは限られているように思います。
自分自身がそんなうまくいかなかった自分を受けいれ、自分で立ち直っていくしかない。
そんなシーンが、成長するにつれどんどん増えてくる。
そんな時、支えとなるものが自己肯定感であったり、レジリエンスであったりするのだと思います。
そうしたものをどうやって育むのか。
私にはこれまで明確な方針や知識がありませんでしたが、今春から少しお手伝いをした一般社団法人エンドオブライフ・ケア協会さんの「いのちの授業プロジェクト」にそのヒントがあるようで、6月に開催される勉強会に、ファシリテーターとして参加することになりました。
このイベントは、NHKプロフェッショナル~仕事の流儀~でも取り上げられた在宅医の小澤竹俊先生(エンドオブライフ・ケア協会理事)が開催している、「超高齢多死時代を考える」ワークショップの第8回目でもあります。
子どもからお年寄りまでこのテーマを地域で考えていくことに興味のあるすべての人(教育関係者、民生委員、保護司、町内会、消防団、スポーツチーム、保護者会、障害者支援団体、医療・介護・福祉関係、地域ボランティア、NPO、活動家など)にぜひお越し頂ければと思います。
開催は、2018年6月11日 (月)、19:00~21:00@溜池山王です。
ご応募はこちらから↓
https://peatix.com/event/386748