「卒京゛」して「埼就職」した。

2001年に中国から地元の三重県を経て埼玉県大宮市(といっても岩槻市に近いハズレの方)にやって来て。
2003年にアルバイトをしていた出版社の古書探しのおつかいで、たまたまやって来た東京都杉並区阿佐ヶ谷のケヤキ並木と多様な商店街の魅力に一目ぼれして阿佐ヶ谷に移り住んで14年。
2017年3月に一家で埼玉に移り住んだ。

杉並での14年の間、実に色々なコトをした。

阿佐ヶ谷に一目ぼれした僕は、散歩の達人などを読んで阿佐ヶ谷について調べているうちに、阿佐ヶ谷の北側でケヤキ並木(中杉通りと言う)の商店街活性に取り組んでいるSさんのことを知り、
「なんかやらせてもらえませんか?」とお店に飛び込み、二週間に1回行っているケヤキ並木の掃除を手伝うことになった。




その後も、ケヤキ並木のイベントを手伝わせてもらったり、数年後にはパールセンターでイベントなども行わせてもらったりした。

当時勤めていたアジア圏の留学生向けの日本語学校にいた頃には、留学生が日本人と交流できる場や機会を増やしたいと思い、当時学校で行われていた「総合的な学習の時間」で国際交流も人気テーマだということを知り、学校向けの国際交流プログラムをつくった。
それを杉並区教育委員会に持ち込んだ時、「学校教育コーディネーター」という、総合的な学習の時間用の授業コンテンツを、学校ニーズに合わせて民間企業やNPOと協力して開発するという仕事を知り、面白そうで応募したら補欠合格した。

正式に採用(といっても年間36万円のほぼボランティア仕事)された後、日中は小学校に出入りするため、自由に行動できそうな求人広告の営業マンになり、毎日給食を食べに小学校へ行っていた。

阿佐ヶ谷というコミュニティに何かしたいという想いはその間もずっとあって、求人広告の営業になったものの飛び込み営業やテレアポが苦痛でしょうがなかったため、この前者の希望を実現し、後者の課題を解決する策として、阿佐ヶ谷のフリーペーパーをつくった。
(フリペつくってるんです、と言ってお店や会社に入っていくと、新規の広告がけっこう取れた)

こうしたことを「金ないなー」とつぶやきながら(ちなみに、この頃Twitterはなく、mixiが全盛期だった)続けていたら、杉並区の公式B級雑学サイトの運営委員の人から声をかけられ、記事を寄稿し、その後運営委員になった。
その後、その時声をかけてくれた人に師事し、ちゃらんぽらんでビジネス常識も何もなかった僕に、アホバカマヌケと言われ、深夜3時に電話をかけてきたりする中で、多くのモノゴトを叩き込んでもらった。

この時につくった「杉並モノ語り年表」、「すぎなみパン祭り」はとても思い入れのあるコンテンツだ。

杉並では他にも防災アプリや保育園検索マップなどをつくったが、根っこにあったのは「こうなればいいのに」や「この問題を解決したい」という願望や不満や怒りで、それが並木の掃除、記事、イベント、アプリなど色々なアウトプットになった。
(ちなみに僕はライターでもイベンターでもプログラマーでもなかった)

こうして誰に頼まれてもいないのに、自分が好きな街に、自分が知っているコトやできるコトで何かしたいと思って色々やってきたが、娘が生まれて以降、保育園検索マップを最後に、杉並で何かをするということがなくなった。
普通は逆かも知れない。
自分だけでなく子どももその地域で暮らすのだから、関わる度合いも機会も増えるはずだろうが、こと子育て環境についていえば不満はほとんどなかった。
こうなればいいなぁという願望も、どうしても実現したいと思えるモノもなかった。
やったことは、区内保育園がめちゃくちゃ探しにくい経験が怒りになって企画した保育園検索マップくらいだった。
それだけこの分野では多くの人々が様々に活動をしてこられ、その成果を享受していたんじゃないだろうか。

自宅アパート近くの善福寺川緑地公園は緑豊かで、遊具も多くて子どもの遊び場としては最高の環境だった。
早朝に起きた娘を抱っこして。夜泣きした娘を抱っこして、何度善福寺川沿いを歩いたかわからない。
図書館も近くにあって毎週のように娘と通った。何度お話会に通ったかわからない。娘はお話会のスタンプを集めるのを楽しみにしていた。
よくわからないが、自分の環境にそこそこ満足を知れば、人は敢えて首を突っ込もうとはしないのかもしれない。

そもそも、阿佐谷北に在住していたのが、少し離れた成田東に引っ越したからだとか。
関わる対象が阿佐ヶ谷から杉並区に広がったからとか。怒りを感じる問題や関心が、阿佐ヶ谷という街よりもはるかに大きくて、自分がすこし動いたところでどうしようもない問題だったからとか。
これをやろうかなと思っても、ネットで調べると既にその活動をしている人々がいて、「ならいいか」と思ったからとか。
仕事が忙しくなったとか。職場が杉並から移ったとか。地域で何かをするなら今の仕事に関連する領域、内容でお金を取りたいと思うようになったから、というのもある。
企画依頼のあったゴミ出しアプリの仕様書を書いて発注が来ると思ったら、それを許諾なしに外部公開されて入札になったとか。
(その後プロポーザルになったが、採択されなかったのは提案力や信用が他社に比べて十分ではなかったのだ)
担当者がやると言ってメンバーアサインして手を動かし始めたところで、急に中止と言われて案件がなくなったとかいう目に遭ったのも大きかったかも知れない。
他にも、当時の師匠が地元に入り込もうとして性急な動きをした結果、これまで良好な関係を築いてきた商店主の人々との関係がギクシャクしたのも原因かもしれない。

阿佐ヶ谷に来た頃は20代半ばの青年期で、いかに生きるべきかとか、自分の興味のあることでどうにか暮らせないかとか悶々と考え、自分探しというのかモラトリアムな時期をぐずぐずと過ごしたのに対し、30代になってからはそんなことを考える暇も余裕もなかったのかもしれない。

余談だが、娘が生まれる前後に、師匠と袂を分かって起業を目指していた僕は、出資が決まるまでの間、杉並区役所の前にあるデニーズで、当時220円のおかわり自由なドリップコーヒーで半日以上を過ごし、日々事業計画書などプレゼン資料作りに勤しんでいた。
本当に毎日通ったので、お店の人は僕のことを「ミスタードリップ」などと呼んでいるに違いないと思い、娘が生まれ、仕事が安定して家族でデニーズにいく時は、しっかりとフードメニューを注文し、「オレはミスタードリップじゃない!」とアピールしていた。
(そんな時に限って、その店員さんは店にいなかった)

それはともかく、僕たち家族は長女が小学校に上がる一年前に、杉並区から埼玉県に引っ越した。

群馬に近い高崎線の駅までの旅程は、座り過ぎれば腰やケツが痛くなるが、まとまった読書時間や考えごとをメモにまとめてい時間が確保できるのは、なかなか良い。
1時間20分ほどの距離を電車で通っていると、東京まで出稼ぎに来ているような感じがする。
杉並に住んでいた頃の終日外回りよりも、今の外回りの方が地方出張感覚がある。
メトロのように5分間隔で電車が来ていないので、少し時間間隔が変わった。
僕はプロマネを生業にしているが、1時間20分の通勤時間を経験することで、プロジェクトでは一度舵を切って動かすと、容易には方針転換できない感覚を取り戻した。
東京にいて、デジタル系の仕事をしていると、いつでもやれる・やり直せる・始められるという感覚がある。
このやってみよう感覚はスピード重視、スモールスタートという点ではとても重要で、この感覚がないとやれることもやれないと尻込みしたり鈍重になったりしてしまうが、逆に、一度動かすと(規模によっては)容易には止められないという感覚や、そうしたリスクを重視するクライアントがいることを知っておくのも大事だと思い直した。

そにしても、一駅の距離が長い。終電で一駅寝過ごしたら、最寄駅まで徒歩約50分かかって苦笑いするしかなかった。

杉並では各地に点在していた図書館や、この街では一か所にしかない(が、規模は大きい)。
スーパーやツタヤのサイズが大きい。品ぞろえが豊富過ぎて買い物が楽しくなり、思わずそのスーパーのカードをつくってしまった。
スーパーでは、エプロンを着けて、スーパーに買い物にくるおばさん率が高い(お出かけ用と家中用を使い分ける人もいるらしい)。
子どもを見かける数が圧倒的に少ない(人口56万人から8万人の街の落差はかようにデカい)。
娘を保育園に送り迎えする時間は取れなくなった。
杉並では不要だった敷布団を毎週持ち帰って干して届けたり、主食費や遠足費を支払ったりするなど、保育園で用意するモノが増えた。
やはり東京は豊かなのだ。車なしの生活はしにくくなった。

あと数年で40歳になるという時期に、地方の中小都市に移り住み、どんな暮らしをしていくのかまだイメージを持てていないが、とりあえず休日は娘たちと公園探しをしている。


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