子供の習い事を決める視点 ~表現欲とそれを満たす手段について

2011年からブログを始めてはや3年目。
この間駄文を書き連ねてまいりましたが、何かを見聞きして感じた事、脳みそで考えた事などを適切に表現できた時というのは、たいへん嬉しいものがあります。

この嬉しさは「書いたぜ、ヒャッホー!」という無邪気や喜びではなく、まして誰にも催促されていないので「脱稿したぜ、ヒャッホー!」という安堵感でもありません。

なんというか、スッキリした気持ちというか、憑き物が落ちるというか、

「オレはこれを伝えたかったんだよ」

という喜びを感じるのです。

で、ここ数か月こうした喜びを自覚するようになってから、2歳の娘に思いを巡らせるようになりました。

生まれてしばらくの赤ちゃんは、眠さ、空腹、排便の気持ち悪さ、発熱を全て「泣く」ことでしか伝えることができません。

これが言葉の発達とともに伝えたいことの内容が増えていくわけですが、それでも十分に表現できる訳ではありません。

特に2歳児のようなある程度語彙が増え、言葉で大人とコミュニケーションが取れるようになってきたものの、まだ完全ではない時期においては、伝えたいのに伝わらないもどかしさを子供は抱えなければなりません。
それって相当なストレスではないでしょうか?

こうしたストレスが、爪噛み、指しゃぶり、大声で叫んだりペチペチ叩くといった行為に現れてくるのだと思います。
(これも一つの表現)


以上のことを踏まえると、大人は本当に恵まれていると感じます。

適切な言葉で表現する、伝えることはもっとも汎用的な「手段」でありますが、全ての人がそれを得意とする訳ではありませんし、情動というかリビドーのようなものの最適な表現手段が言葉であるとも限りません。

そうした時、言葉に代わって以下のような手段があります。

書く。
描く。
詠む。
歌う。
撮る。
踊る。
弾く。
作る。
彫る。

これらの手段にはそれぞれに道具、その道具を扱う技術があり、ルールがあります。

こうした表現手段を先天的に上手に扱える一部の人と、訓練が必要な多くの人々が存在しますが、人々の表現したいという欲求を解放してあげる新しい手段を発明したり、Instagramのフィルタのようにちょっとイケてるアウトプットを簡単に作れるようにしてあげたりして、表現のハードルを下げてあげることができれば、そこに喜んでお金を払う人がいるのではないでしょうか?

まだそういう状況になったことがないのでわからないのですけど、
子供の習い事はいつから始めればいいのかとか、何を習わせればいいのかといった事がYahoo!知恵袋などに載っているのをみると、親がどうこうよりも子供が「やりたいやりたい!」と言ってきかないくらいのものがあれば、それは一度やらせてみればいいのだと思うのです。

そうして体験した物事の中から、最も自分を表現できるものに出会えれば、それで食える食えないといった事はどうでもよく、子供にとって大変幸せな事ではないでしょうか?

という訳で、娘が「ピアノやりたい」とか「バレエやりたい」とか言い出したら、

「それはお前の表現欲を最も満たしてくれる手段なのかい?」

ということを、やさしく言い換えて問うてみたいと思います。

このブログの人気の投稿

子どもがよろこぶ「おはなし」の作り方

【著者解説動画有】『プ譜』とは何か?概要とテンプレートを紹介します。

高崎線の四人ボックス席で帰るプロジェクト 後編