共憶 ~記憶は他者と共有して豊かになる
わが家には母伝来のレシピ本があります。
表紙も奥付もないため書名がわからないのですが、かろうじて残っている前書きに、
”「主婦の友」に連載された「材料別大料理●●●●●(←ここもはがれて読めない)カード」を1冊にまとめ、さらにレシピを追加補充し、若奥様が一番知りたい基礎とコツをたっぷり加えた鬼に金棒” なレシピと書いてありました。
このレシピは私の中国留学時代に母が送ってくれたもので、以来帰国して上京した後もずっと持ち続けています。
先日、母がこのレシピ本がきっかけで知り、以来わが家の定番料理になって私も大好きな「マロニーと豚肉とほうれんそうなべ」を作りました。
(正式なレシピ名は「豚肉とほうれんそうなべ」)
全員のランクに入っているのが「カレー」で、他は微妙に異なっています。
ストーブに鍋を置い前日からてコトコト煮込む牛すじ肉。
ニンジンのゴマ炒めはニンジンの千切りを味醂、醤油で炒めてゴマをかけたもので、疲れた体にしみわたります。
淡白だけれどもコリコリした触感が楽しいまんぼうは酢味噌で和えると美味しく、少し入ってくる肝がまた美味。
一番下の弟の「野球の試合当日の弁当」はおかずはその時々で違うのでしょうけど、母想いのなかなかにくい答えです。
■記憶は他者と共有して豊かになる
この表作りを通して、「あぁ、あれ美味しかったなぁ」と忘れていた料理を思いだしたり、「ニンジンのゴマ炒め!わかるわかる!」とひとりごちたり、「あれまたみんなで食べたいなぁ」と郷愁にひたったりといった、たいへん楽しい体験をしました。
そこで改めて思うのは、記憶というものは他者の記憶と共有することによって、新しい発見や喜びが生まれるのだなぁ、という事です。
弟たちと私がそれぞれ選んだ料理には、単純にそれが美味しいという事だけでなく、食べた時のシチュエーション、エピソード、情景などが伴っているものがあります。
そこに味覚以外のランキング入りの秘密(要因)があります。
共通する事象に大して、個々人が持っている想いや体験が異なれば、それを見聞きするのは新鮮で面白い訳で。
これを便宜的に「共憶」と呼んでみると、読書でも映画でもスポーツでも、共に読んだり、見たり、体験した記憶のアウトプットを共有できる場所や手段を提供することは、その体験を同じくした人にとって、とても喜ばれるものになるのではないでしょうか?
対象によって記憶しているものの最適な表現手段(テンプレートのようなもの)は異なるのではないかと。
今回の兄弟3人による好きな母の料理という記憶は、ランキング形式にした事で面白いものになったと考えますが、これが遊園地に行ったという記憶なら単に個々の写真を共有し合うだけで良いかも知れません。セミナーであれば学び得たことのレポートかも知れません。
文章を書くこと、写真や動画を撮ることが最も汎用性のある手段ではありますが、対象によっては更にもう一工夫加える事で、その体験をより素敵なものにできるのではないでしょうか。
言い方を変えると、「記憶を再編集して形にしてくれる」ツール、ストーリー、テンプレートのパターンは、色々あって良いのではないかと思った次第です。
(その最適化された手段がイケていれば、ユーザーに支持されるソリューションになる)
今回の兄弟3人の好きな母の料理を、今度は母や父とも素敵に共有していくにあたり、どういった表現手段が良いかまだ考えられていないのですが、母の日のプレゼントに絡めてもう少しアイデアを練ってみたいと思います。
■余談だが
学校での学びも「共憶」の文脈で考えると、共に学んだ学習のアウトプットの手段が主にテストしかないというのは、実はとてももったいないことではないだろうか。
グループ学習の中でグループ(班)毎に発表をするというような事例は総合学習の素敵事例として散見してきたし、今も志の高い教師によって行われているのだと思うが、他者の考えやアイデアに触れて刺激を受けたり、そうしたものをアウトプットするという、学びの本質的な喜びを体験できる授業行ってくれる学校に、娘を通わせたいものだ。
もはや、表紙すらありません。 |
”「主婦の友」に連載された「材料別大料理●●●●●(←ここもはがれて読めない)カード」を1冊にまとめ、さらにレシピを追加補充し、若奥様が一番知りたい基礎とコツをたっぷり加えた鬼に金棒” なレシピと書いてありました。
このレシピは私の中国留学時代に母が送ってくれたもので、以来帰国して上京した後もずっと持ち続けています。
先日、母がこのレシピ本がきっかけで知り、以来わが家の定番料理になって私も大好きな「マロニーと豚肉とほうれんそうなべ」を作りました。
(正式なレシピ名は「豚肉とほうれんそうなべ」)
初物嫌いの2歳の娘に初めて食べさせたところペロリとたいらげ、「味の好みって似るのかなぁ」という事や、「こうして料理って受け継がれていくのかなぁ」といった事を思いました。
久しぶりにこの料理を作ってみて、私はこの料理が好きだけれども、二人の弟たちは母のどんな料理が好きなのか気になりました。
そこで、Facebookメッセージで「母の好きな料理ランキング」を聞いてみたのです。
で、返ってきた答えを元に作ったランキングがこちら。そこで、Facebookメッセージで「母の好きな料理ランキング」を聞いてみたのです。
全員のランクに入っているのが「カレー」で、他は微妙に異なっています。
ストーブに鍋を置い前日からてコトコト煮込む牛すじ肉。
ニンジンのゴマ炒めはニンジンの千切りを味醂、醤油で炒めてゴマをかけたもので、疲れた体にしみわたります。
淡白だけれどもコリコリした触感が楽しいまんぼうは酢味噌で和えると美味しく、少し入ってくる肝がまた美味。
一番下の弟の「野球の試合当日の弁当」はおかずはその時々で違うのでしょうけど、母想いのなかなかにくい答えです。
■記憶は他者と共有して豊かになる
この表作りを通して、「あぁ、あれ美味しかったなぁ」と忘れていた料理を思いだしたり、「ニンジンのゴマ炒め!わかるわかる!」とひとりごちたり、「あれまたみんなで食べたいなぁ」と郷愁にひたったりといった、たいへん楽しい体験をしました。
そこで改めて思うのは、記憶というものは他者の記憶と共有することによって、新しい発見や喜びが生まれるのだなぁ、という事です。
弟たちと私がそれぞれ選んだ料理には、単純にそれが美味しいという事だけでなく、食べた時のシチュエーション、エピソード、情景などが伴っているものがあります。
そこに味覚以外のランキング入りの秘密(要因)があります。
共通する事象に大して、個々人が持っている想いや体験が異なれば、それを見聞きするのは新鮮で面白い訳で。
これを便宜的に「共憶」と呼んでみると、読書でも映画でもスポーツでも、共に読んだり、見たり、体験した記憶のアウトプットを共有できる場所や手段を提供することは、その体験を同じくした人にとって、とても喜ばれるものになるのではないでしょうか?
対象によって記憶しているものの最適な表現手段(テンプレートのようなもの)は異なるのではないかと。
今回の兄弟3人による好きな母の料理という記憶は、ランキング形式にした事で面白いものになったと考えますが、これが遊園地に行ったという記憶なら単に個々の写真を共有し合うだけで良いかも知れません。セミナーであれば学び得たことのレポートかも知れません。
文章を書くこと、写真や動画を撮ることが最も汎用性のある手段ではありますが、対象によっては更にもう一工夫加える事で、その体験をより素敵なものにできるのではないでしょうか。
言い方を変えると、「記憶を再編集して形にしてくれる」ツール、ストーリー、テンプレートのパターンは、色々あって良いのではないかと思った次第です。
(その最適化された手段がイケていれば、ユーザーに支持されるソリューションになる)
今回の兄弟3人の好きな母の料理を、今度は母や父とも素敵に共有していくにあたり、どういった表現手段が良いかまだ考えられていないのですが、母の日のプレゼントに絡めてもう少しアイデアを練ってみたいと思います。
■余談だが
学校での学びも「共憶」の文脈で考えると、共に学んだ学習のアウトプットの手段が主にテストしかないというのは、実はとてももったいないことではないだろうか。
グループ学習の中でグループ(班)毎に発表をするというような事例は総合学習の素敵事例として散見してきたし、今も志の高い教師によって行われているのだと思うが、他者の考えやアイデアに触れて刺激を受けたり、そうしたものをアウトプットするという、学びの本質的な喜びを体験できる授業行ってくれる学校に、娘を通わせたいものだ。