言葉にすればごくごく当たり前のことを、なんで哲学を用いて説明するのか?

『プロジェクトの地獄とは何か?~現象学に解決の糸口を探る。』という記事を書きました。

「プロジェクトの地獄」とは、単なる客観的な炎上状態ではなく、本人や関係者の主観的な体験のあり方によって形成される、という内容なのですが、あらためて原稿を見ると、「結局は本人の気の持ちよう」や「関係者間の認識をちゃんと擦り合わせよう」という当たり前のことを、哲学を用いてくどくどと説明しているだけのように思えます。

当たり前のことを、このように哲学を用いて説明することの意義や価値はあるでしょうか…?


哲学を用いて「当たり前のこと」を説明する意義

「結局、気の持ちようや認識の擦り合わせを言っているだけでは?」 という疑問は、「哲学が実務に役立つのか?」という、実用性に関わる本質的な問題でもあると思います。


1. 当たり前のことを哲学的に説明する価値はあるのか?

確かに、「気の持ちよう」「認識を擦り合わせることが大事」 というのは、一見すると誰でも理解できる話です。

では、なぜわざわざ哲学を使って説明するのでしょうか?

それは、「当たり前のこと」ほど、意外と実践できていないから」です。


たとえば、「運動が健康に良い」 ことは誰でも知っていますが、実際に習慣化している人は少ないです。

同じように、「認識を揃えることが重要」 ということも、分かっているようで、プロジェクトの現場では意外とできていません。

哲学は、そうした「知っているつもりだけど、実践できていないこと」を深く掘り下げ、改めて「本当に理解しているのか?」と問い直す役割を果たしてくれるのだと思います。


2. 現象学を使うことで、プロジェクトの「地獄」の構造が明確になる

哲学を持ち込むことで、「プロジェクトの地獄とは何か?」を、より構造的に説明できると私は考えます。


単に「気の持ちよう」の話ではない理由

一般的に、プロジェクトが炎上したとき、次のような説明がされることが多いです。

「前向きに考えよう」

「もっと関係者と話し合おう」

「冷静に対処しよう」

しかし、現象学を使うと、「なぜ人によって感じ方が違うのか?」という、もう一段深いメカニズムが理解できる ようになります。


 例えば:

「期待値と現実のズレ」 

 人は何かを経験するとき、必ず「期待」とともにそれを受け取る(志向性)。このズレが大きいほどストレスが増す。

「コントロール感の違い」

同じ状況でも、「自分で何とかできる」と思うか、「どうしようもない」と思うかで、ストレス度合いが変わる。

「間主観性の崩壊」

そもそも関係者が違う現実を見ているので、「擦り合わせをしよう」に至らないことが多い。


このように、現象学の視点を入れることで、「なぜこの問題が起こるのか?」を、ただの精神論ではなく、より客観的に分析できる ようになります。


3. 哲学を使うことで、実務での「再現性」が高まる

哲学を使うことで、プロジェクトの問題を単なる「個別の事例」ではなく、「普遍的な構造」として捉えられる ようになります。

例えば、「炎上したときにどうすればよいか?」 という問いに対して、現象学的なアプローチを適用してみましょう。


従来のアドバイス
「もっと会話しよう」
現象学を活用したアドバイス
「間主観性が崩れると、認識のズレが発生する。まず関係者の主観を可視化し、現実のギャップを認識しよう。」

従来のアドバイス
「冷静になろう」

現象学を活用したアドバイス
「期待値と現実のズレが地獄感を生む。事前に最悪のケースを想定し、ギャップを小さくする工夫が必要。」

従来のアドバイス
「どうしようもないことは諦めよう」

現象学を活用したアドバイス
「コントロールできる範囲を認識することで、無力感を減らし、影響を与えられる部分に集中する。」

このように、哲学を使うことで、「なぜこの対策が機能するのか?」を理論的に説明できるため、再現性が高まると考えます。


まだ現象学への理解が浅いなかで記事を書いたため、このような言い訳がましい文章を重ねて書いているのかも知れないのですが。

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