何を板書して、何をノートに書くべきなのか?

ジージョ(2年生)が「学校なんてやだ」「学校なんて行きたくない」と言い出した。

行きたくない理由は色々あって、そのうちの一つが「先生の板書のスピードについていけない。書いてあることを全部ノートに書き写せない」というものだった。先生側の視点に立てば、「視写が遅い」ということになるだろうか。

先生が黒板に書いた授業の要点なりなんなりを、ジージョは一生懸命、ていねいに、4Bの濃い鉛筆で書き留めていく。ちょうど同じ時期に取り組んでいた硬筆展の影響かわからないが、ていねいに書こうとするほど追いつけなくなる。

この話を聞いて、ノートに取る字は硬筆展ほど丁寧にしっかりと書かなくても大丈夫だということは伝えたものの、その塩梅がジージョにはまだよくわからない。

そこで担任の先生に事情を伝えたところ、先生はジージョが書き終わっているかどうかを確かめてくれるようになった。

限られた時間内に山盛りの教えなければいけないことがある先生にはご苦労をかけてしまったかもしれないが、ジージョはだいぶ救われたようだった。

3年生に上がっても、ジージョの「学校なんてヤダ」は続く。

相変わらず理由は色々あるのだが、ジージョの宿題をみていたときに、算数のノートを目にする機会があった。

目に留まったのはノートに貼ってあった問題用紙(と言うのだろうか?)だった。


これは何かとジージョに聞くと、先生が授業をするときに配ってくれるものだと言う。

これを見てジージョがに先生のときの板書についていけない悩みを思い出した。

困ったことに、2年生のジージョが板書をノートに写していたかがわからないのだが、もし問題文まで書き写していたのなら、問題文はわざわざ板書しなくてもよいように思うので、この問題文をプリントしてノートに貼る方法は良い解決方法だと思った。

でも、すぐに「あれ、これ貼るひと手間を考えたら、プリントの紙1枚渡すだけでよくない?」と思ってしまった。

数多くの板書やノート研究と実践があるなか、私がここに書いていることは教師にとってはごくごく当たり前のことかもしれないが、これらの出来事は、

「板書及びノートに取る目的とは何か?」

「板書すべき、視写すべき情報は何か?」

「板書及びノートに書き写す意味、効果とは何か?」

ということを考えさせる。

さらには、45分という限られた時間のなかで、「何に時間を使うべきか?」ということも考えさせる。

もし先生に、「教師が板書したものを児童はノートに書き写すべきなのだ」という、浅くも凝り固まった思い込みがあれば、プリントした紙を貼るという方法は思いつかなかったかも知れない。でも、繰り返しになるが、紙に貼るという作業自体もムダなように思う。このような時間の浪費が積み重なってか今となってはわからないが、学期末に近づくほど、先生が教科書を読み飛ばしていったのは今でも覚えている。

これ以外にも手段は色々ある。ICTを使うという手段もあれば、教師が書かなくていい情報と書くべき情報を指示する方法もある。ノートの書き方指導をするという方法もある。

採用される方法は目的によって変わる。先生の思想や好み、得手不得手によっても変わるし、学校や教育委員会などの方針によっても変わる。

児童生徒に「このような力や技術、学習観を身につけさせたい」ということから逆算して真摯に考えていくことで、方法を工夫してみようという考えが生まれる。

一方で、児童生徒から今の板書とノートの取り方についてフィードバックを得られないと(先生から得ようとしないと)工夫や改善の機会は生まれにくい。

考え始めると問題はとても複雑で、だからこうしようというものはないのだが、自分の仕事上のテーマである「願いと設計」に関わる内容だったので、また機会をあらためて考えを深めてみたいと思う。


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