答えではなく考えを示して、「問いを立てる力」をはぐくむ ~4歳娘の問いストーリー
先月、『「問い」は「行動」を起こすためのエンジン ~4歳娘の問いストーリー』で、
なぜなぜ期にある娘のパン屋さんでの出来事をご紹介しながら、
子どもの問いがどのようにして行動を起こすに至るのかということを書きました。
今回は、その稿の最後に書いた、
「疑問を感じる力は親のつきあい方によって萎えさせる、枯れさせてしまうかも知れない」
ということへの対処と、加えて「問いを立て、行動を起こすための親のつきあい方」について実体験をもとに考えたいと思います。
■疑問を感じ、問いを立てる力を育む応え方
前回、娘がパン屋さんになぜ子どもの遊び場があるのか?という疑問を感じてから、
見知らぬ他人に質問をするという行動の過程を図式化しました。
この図は「疑問を感じてから行動を起こすことができる」ようになったものであり、
実際にこの状態になるための前段階があります。
子どもの疑問を感じる力を枯れさせないように。
子どもが問いを立てられるように。
子どもが自ら行動を起こすことができるように。
親の介助が大切であることを示したのが下図です。
こちらの図をもとに、まずは「疑問を感じる力」を枯れさせない親のつきあい方=「なぜなぜ」への応え方について考えてみましょう。
「なぜなぜ」の種類にもよりますが、基本姿勢としてはすべての疑問に答えてあげたいところです。
疑問を感じる→「なんで?」と親に聞く→親が応えてくれる
この信頼感があってこそ、子どもは安心して「なぜ?」と感じ続けることができるのではないでしょうか。
とはいえ、子どもの「なぜなぜ」には簡単に教えられるものもあれば、幼児に説明するのは難しいものや親も答えがわからないものがあります。
そんな「なぜなぜ」に対しては、「こうじゃない?」「こうだからかなぁ?」「パパはこう思う」と自分の考えを示すことで応えます。
ここでのポイントは示すのは「答え」ではなく「考え」です。
大事なのは考えを示すことなので、何がしかの機械構造や化学変化について聞かれ、
その正しい答えを科学的に答える必要はなく、筋が通っていれば妖怪のしわざにしてしまっても良いと考えます。
さらに答えられない難題となったら、「なんでだと思う?」と問い返します。
この「こうだからかなぁ?」と「なんでだと思う?」は消極的な対応などではけしてなく、
他人(親)の考えにふれることと、自らに問いかけられることが、子どもが自分で問いを立てることにつながります。
ただ、最初から「なんでだと思う?」と返したところで、その前提となる知識に乏しければ子どもは考えようがないので、
順番としては
1.とにかく答える (こうである)
2.親の考えを示す (こうじゃない?こうだからかなぁ?)
3.子どもに考えさせる (なんでだと思う?)
となります。
こうして考えていくと、前回パン屋さんで娘が行った「なぜパン屋に遊び場があるのか?」という問いかけに
パン屋の奥さんが「なんでだと思う?」と問い返してくれたのは大ヒットで、
順序は異なるものの、これによって娘は自分が「感じた疑問」を「行動を起こ」パン屋さんに「問い返された」ことで、自ら「問いを立て」、正解を得るという豊かな体験をしたのだと思います。
■神様が決めたことという態度や思考は文明を左右する
子どもの疑問を感じ、問いを立てる力を育む上でNGなのは「そういうルールなんだよ」とか「神様がそう決めたのだ」といった、
社会的な権威だったり人智を超えた存在だったりを多用することです。
娘のなぜなぜ最盛期のころ、あまりの煩わしさに「それは神様がそうしたのだ」とか「おまわりさんがそう決めているのだ」と答えたものですが、このような態度が文明の盛衰を左右したのは歴史が証明するところであります。
例えば、かのエジプト文明やメソポタミア文明でも、学問全体は本質的に王様、管理階級のものでした。
エジプトには『リンド・パピルス』という数学の本がありますが、これは神主の聖なる知識であり、神聖なるファラオが自分の聖職者たちに保持させている神聖な知識であるため、下々の者がどうこう言って議論してはいけないものだったのです。
それは即ち、「こういうふうに計算しろ」と命じられたらそれで終わり。なぜそのような計算が成り立つのかという問いは発せられるべきではないのです。
しかしこれがギリシャになると、市民同士が何についても議論をします。「それはどうしてなのか?」という疑問を提する人間が出てきます。そうやってギリシャでは様々な知識、智慧がポリスの市民に共有され、そこから歴史に残る様々なロゴスが生み出されたのです。
■「やってみせ、言って聞かせて、させてみて」の前に必要なこと
なぜなぜへの応え方としては上記で十分だと考えますが、子どもが疑問を感じ、問いを立て、そこから行動を起こす際にも親の介助が必要なため、言及しておきたいと思います。
人材育成の現場や経営者が愛する格言の一つに、山本五十六の
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」
があります。
まことその通りであるなぁと感ずる格言でありますが、こと幼児においては「やってみせ」の前段階として「一緒にやる」が大切です。
これは娘が2歳の頃のできごとですが、その日の体温や朝食の内容を、娘を膝にのせて一緒に鉛筆を持って連絡帳に書いていたことがありました。
(参考:『娘の鉛筆の持ち方が、「グー持ち」から変わった理由』)
その結果として、ものを書き始めた当初はグー持ちだったのが鉛筆持ちに変わっていたのです。
大事なのは一緒にやる(体験する)ことが、行動を起こさねばならない時に安心して行動できるようになることにつながるのではないか、ということです。
これは疑問を感じ、問いを立てることも同様で、こうした経験を積み重ねることで、未知なものに遭遇した時、恐怖心よりも好奇心が先に立つようになるのではないでしょうか。
■まとめ
考えがあっちこっち行ってしまい、うまくまとめきれておりませんが、
適切な親の介助がくり返し行われることで、
子どもの「疑問を感じる力」「問いを立てる力」「行動を起こす力」が育まれるのだと考えます。
それはとても手のかかることであるものの、アインシュタインのこの言葉を胸に刻んで娘のなぜなぜに付き合っていきたいと思います。
The important thing is not to stop questioning.
過去から学び、今日のために生き、明日に希望をもちなさい。
大切なことは、疑問を持つことをやめないことだ。
次回はなぜなぜ期において最も重要な「問いを立てる」ことと「質問」の意義や効用について考えたいと思います。
以上、親バカが最前線からお伝えしました。
なぜなぜ期にある娘のパン屋さんでの出来事をご紹介しながら、
子どもの問いがどのようにして行動を起こすに至るのかということを書きました。
今回は、その稿の最後に書いた、
「疑問を感じる力は親のつきあい方によって萎えさせる、枯れさせてしまうかも知れない」
ということへの対処と、加えて「問いを立て、行動を起こすための親のつきあい方」について実体験をもとに考えたいと思います。
■疑問を感じ、問いを立てる力を育む応え方
前回、娘がパン屋さんになぜ子どもの遊び場があるのか?という疑問を感じてから、
見知らぬ他人に質問をするという行動の過程を図式化しました。
この図は「疑問を感じてから行動を起こすことができる」ようになったものであり、
実際にこの状態になるための前段階があります。
子どもの疑問を感じる力を枯れさせないように。
子どもが問いを立てられるように。
子どもが自ら行動を起こすことができるように。
親の介助が大切であることを示したのが下図です。
こちらの図をもとに、まずは「疑問を感じる力」を枯れさせない親のつきあい方=「なぜなぜ」への応え方について考えてみましょう。
「なぜなぜ」の種類にもよりますが、基本姿勢としてはすべての疑問に答えてあげたいところです。
疑問を感じる→「なんで?」と親に聞く→親が応えてくれる
この信頼感があってこそ、子どもは安心して「なぜ?」と感じ続けることができるのではないでしょうか。
とはいえ、子どもの「なぜなぜ」には簡単に教えられるものもあれば、幼児に説明するのは難しいものや親も答えがわからないものがあります。
そんな「なぜなぜ」に対しては、「こうじゃない?」「こうだからかなぁ?」「パパはこう思う」と自分の考えを示すことで応えます。
ここでのポイントは示すのは「答え」ではなく「考え」です。
大事なのは考えを示すことなので、何がしかの機械構造や化学変化について聞かれ、
その正しい答えを科学的に答える必要はなく、筋が通っていれば妖怪のしわざにしてしまっても良いと考えます。
さらに答えられない難題となったら、「なんでだと思う?」と問い返します。
この「こうだからかなぁ?」と「なんでだと思う?」は消極的な対応などではけしてなく、
他人(親)の考えにふれることと、自らに問いかけられることが、子どもが自分で問いを立てることにつながります。
ただ、最初から「なんでだと思う?」と返したところで、その前提となる知識に乏しければ子どもは考えようがないので、
順番としては
1.とにかく答える (こうである)
2.親の考えを示す (こうじゃない?こうだからかなぁ?)
3.子どもに考えさせる (なんでだと思う?)
となります。
こうして考えていくと、前回パン屋さんで娘が行った「なぜパン屋に遊び場があるのか?」という問いかけに
パン屋の奥さんが「なんでだと思う?」と問い返してくれたのは大ヒットで、
順序は異なるものの、これによって娘は自分が「感じた疑問」を「行動を起こ」パン屋さんに「問い返された」ことで、自ら「問いを立て」、正解を得るという豊かな体験をしたのだと思います。
■神様が決めたことという態度や思考は文明を左右する
子どもの疑問を感じ、問いを立てる力を育む上でNGなのは「そういうルールなんだよ」とか「神様がそう決めたのだ」といった、
社会的な権威だったり人智を超えた存在だったりを多用することです。
娘のなぜなぜ最盛期のころ、あまりの煩わしさに「それは神様がそうしたのだ」とか「おまわりさんがそう決めているのだ」と答えたものですが、このような態度が文明の盛衰を左右したのは歴史が証明するところであります。
例えば、かのエジプト文明やメソポタミア文明でも、学問全体は本質的に王様、管理階級のものでした。
エジプトには『リンド・パピルス』という数学の本がありますが、これは神主の聖なる知識であり、神聖なるファラオが自分の聖職者たちに保持させている神聖な知識であるため、下々の者がどうこう言って議論してはいけないものだったのです。
それは即ち、「こういうふうに計算しろ」と命じられたらそれで終わり。なぜそのような計算が成り立つのかという問いは発せられるべきではないのです。
しかしこれがギリシャになると、市民同士が何についても議論をします。「それはどうしてなのか?」という疑問を提する人間が出てきます。そうやってギリシャでは様々な知識、智慧がポリスの市民に共有され、そこから歴史に残る様々なロゴスが生み出されたのです。
■「やってみせ、言って聞かせて、させてみて」の前に必要なこと
なぜなぜへの応え方としては上記で十分だと考えますが、子どもが疑問を感じ、問いを立て、そこから行動を起こす際にも親の介助が必要なため、言及しておきたいと思います。
人材育成の現場や経営者が愛する格言の一つに、山本五十六の
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」
があります。
まことその通りであるなぁと感ずる格言でありますが、こと幼児においては「やってみせ」の前段階として「一緒にやる」が大切です。
これは娘が2歳の頃のできごとですが、その日の体温や朝食の内容を、娘を膝にのせて一緒に鉛筆を持って連絡帳に書いていたことがありました。
(参考:『娘の鉛筆の持ち方が、「グー持ち」から変わった理由』)
その結果として、ものを書き始めた当初はグー持ちだったのが鉛筆持ちに変わっていたのです。
大事なのは一緒にやる(体験する)ことが、行動を起こさねばならない時に安心して行動できるようになることにつながるのではないか、ということです。
これは疑問を感じ、問いを立てることも同様で、こうした経験を積み重ねることで、未知なものに遭遇した時、恐怖心よりも好奇心が先に立つようになるのではないでしょうか。
■まとめ
考えがあっちこっち行ってしまい、うまくまとめきれておりませんが、
適切な親の介助がくり返し行われることで、
子どもの「疑問を感じる力」「問いを立てる力」「行動を起こす力」が育まれるのだと考えます。
それはとても手のかかることであるものの、アインシュタインのこの言葉を胸に刻んで娘のなぜなぜに付き合っていきたいと思います。
The important thing is not to stop questioning.
過去から学び、今日のために生き、明日に希望をもちなさい。
大切なことは、疑問を持つことをやめないことだ。
次回はなぜなぜ期において最も重要な「問いを立てる」ことと「質問」の意義や効用について考えたいと思います。
以上、親バカが最前線からお伝えしました。