アーネの学校ごっこでドキッとした、「質問は誰の、何のためのもの?」
アーネが小学校に入学する前。ごっこ遊びが大好きなアーネと学校ごっこをしていた時のことです。
私が先生でアーネが生徒役。
場所は教室で、先生役の私が、「それではじゅぎょうをはじめましょう」などと言って、絵本を読んだり、算数ドリルをやっておりました。
しばらく遊んでいて、私がアーネに「質問をして、答えてもらう」というシチュエーションになりました。
その時、アーネが、
「どんなときに手を上げるの?」
と私にたずねました。
この発言にハッとしたのです。
先生が生徒に質問をして、その答えがわかる生徒が手を挙げる。
(学校現場では「発問」と言います)
答えがわかっている生徒しか、手を挙げられないんだろうか?と、このとき疑問に感じたのです。
先生の板書が読みにくい時や、トイレに行きたい時に手を挙げたことはあるものの、授業中にわからないところがあって、それについて手を挙げて質問をしたという記憶があまりありません。
質問(発問)するのは、いつも先生の方。
先日対談させて頂いた、ワークショップ研究の安斎勇樹先生から、「発問」と「質問」と「問い」の違いについて教えて頂きました。
- 発問とは、答えが問いかける側(学校で言えば先生)にあって、相手(生徒)に答えさせるもの。
- 質問とは、答えが問いかける側(学校で言えば生徒)にはなく、相手(先生)に答えてもらうもの。
- 問いとは、お互いに答えを持っていないものだということです。
この分類でいくと、子ども(生徒)が質問をする機会が少ないのではないかということです。
私は田舎の小中学校しか経験しておりませんが、生徒が教員にわからないところがあったり、或いは内容に疑義を呈そうとしたりして手を挙げ質問をするということは、あまりないのではないでしょうか。
そもそも今の教育システムが、教える効率性を重視せざるを得ず、生徒からの質問を引き出すような時間を取れないという構造的な問題があるかも知れません。
しかし、大人になれば、問題は常に与えられるものではなくなります。
さらにアーネが大人になるころ、これまで他の大人が知らない・経験したことのない問題が頻出していることでしょう。
そうした問題に今の子どもたちが遭遇した時、誰(人間とは限らず、市場や自然の場合もあります)に、どのように質問するかによって、引き出されるものが大きく変わり、それが自分に影響を及ぼすことを考えれば、質問をする力というのは子どもの頃から伸ばしておいた方がいいのではないかと思います。
人生を通じて、命令され指揮されてきた人間は、違うやり方で教えたり経営したり指揮したりすることを、どうやって学ぶのでしょうか?
教師が答えを教えなくてはいけないのではなく、生徒が自分で疑問を持ち、自分で答えを探す余裕を与えてやることくらいできないのだろうか。
そうやって学んだほうが、実際にはずっとたくさんの知識を覚えているんじゃないだろうか・・・なんてことをアーネの質問から考えさせられました。
以上、親バカが最前線からお伝えしました。