「した・してない・している」だけでなく、目に見えない「しようとしている」をみる
先日、アーネが気に入っているふとんに、ジージョが牛乳をこぼしてしまった話を書きました。
(『目に見えない子どもの行動・理屈をどう「みる」か?』)
(『目に見えない子どもの行動・理屈をどう「みる」か?』)
この時の経験で、「子どもには子どもの理屈がある」ということと、「親が子どもを見ていない時に、子どもが行っていることに対し、いかに思いを致すことができるか?」、「自分の目に見えていない子どもの意図をどう汲み取るか?」という教訓を得ました。
後者の教訓は特に強烈でありました。
親はどうしても子どもを「〇〇した」、「〇〇している」、「〇〇してない」という、自分の目に映る姿でしか判断できない(しづらい)ものだと思います。
でも人間だもの、二分法では語れません。
人間が何かを思い出す(想起)する時、「思い出せない」と「思い出した」の間に、「もうちょっとで思い出せる」という段階があります。
「わかる」と「わからない」の間にも、「わかろうとしている」段階があります。
これらと同じように、「〇〇した・している」と「〇〇していない」の間に、「〇〇しようとしている」という目に見えない段階があるということを親は脳みそに刻んでおいた方がいいのではないかと思うようになりました。
「〇〇した・している」と「〇〇していない」は目に見えますが、「〇〇しようとしている」は目に見えません。
卑近な例ですが、親が期待する、例えば「歯磨きをしている」ということを今はやっていなくても、今やっている遊びが終わったら歯磨きを始めるかもしれないし、ピアノの宿題もなかなかやらないけど、寝る前になって思い出したように始めるかも知れません。
子どもが頭の片隅においているであろう、「あれやんなきゃな」、「あれそろそろやろうかな」という見えない矢印のようなものを見ずに、「あの子は〇〇をしていない」と見て、「〇〇やったの?」、「まだやってないの?」と子どもに聞けば、子どもは「これが終わったら、やろうと思ってたんだよ!あー、やる気なくした!」という、よく見聞きするセリフを口にするのではないでしょうか。
(もちろん、まったくやるつもりがなかったり、頭からスッポリ抜け落ちている時もあるでしょうが)
この「子どもは〇〇しようとしている」ということを、念仏のように持っておけば、子どもへの見方・対応の仕方がトゲトゲピリピリしたものにはなりにくいんじゃないかなぁと思う今日この頃です。
以上、親バカが最前線からお伝えしました。
●見え過ぎてしまうことの弊害についてはこちらをご覧下さい