おぼえる、できる、わかる

保育園でクラスメートが言っているのを聞き覚えてくるのか、最近アーネ(4歳)が

「5たす5は10」

とか

「3たす3は6」

などと言っています。

わが家は幼児教室に通わせておらず、家庭内で算数教育をしていないので、アーネはたぶん「暗記」をしているのだと思います。

40年近く生きてくると、色々の仕事・人生経験の中から、わが子には暗記型の人間より、
もっと、こう、物事の本質がわかる人間になってほしいと願うようになるのですけども、
「暗記型」と「わかる型」の人間というのは、どう違うんでしょう?

「暗記」と「わかる」では対比がイケていないので、「暗記」を「おぼえる」としてみます。

「おぼえる」と「わかる」。

うん、こっちの方がしっくりくる。


では、あらためて「おぼえる」型人間と「わかる」型人間がどうちがうかを考える前に、まず「おぼえる」と「わかる」の違いを、アーネのエピソードを事例にとって考えたいと思います。


冒頭紹介したアーネの足し算は、5+5、3+3というふうに「同じ一桁の整数同士」のものばかりです。
答えの数が5+5と同じになる「6+4」や「2+8」というような式を言ったことは(少なくとも私が耳にした中では)一度もありません。

たぶん、同じ整数同士の足し算は、「ごたすごは、じゅう」「さんたすさんは、ろく」というふうに語呂がよくおぼえやすいのでしょう。
で、語呂がよいとおぼえやすいだけでなく、暗唱もしやすい。

ただ、「ごたすごは、じゅう」と言えても、「6+4」や「2+8」が出てこないのでは、答えが10になる足し算を“わかっている”わけではないのですよね。

「同じ一桁の整数同士の足し算を言うことができる」、というふうに、
「おぼえる」を「できる」に格上げしたとしても、「できる」と「わかる」には、大きな溝がある。


そんなことをアーネの足し算を聞きながら考えていた頃、ある日の夕食のデザートに、娘がデコポンを一つ台所から持ってきました。
デコポンの皮をむくと、全部で10房あります。
これを、アーネに、

「アーネとママとパパが同じ数を食べられるように分けてくれる?」

と頼むと、「これはパパ」「これはアーネ」と、デコポンの実を1つずつ3カ所に分けていきました。
3人の実の数が3房になり、のこり1房になって、
「これどうする~?」とアーネが言うので、それはむいてくれたアーネちゃんが食べて、と言うと、たいへん喜びました。

この時、10房の実を3人で、4-3-3と分けたわけです。


翌朝。

まだ台所に残っているデコポンを見たアーネが、「これきょうもたべる?」と言うので、私が「そうね、食べようか」と答えると、アーネが「(デコポンの実が)また10こあったらどうする?」と聞いてきました。

私は「昨日みたいに、4-3-3で分けたらいいんじゃない?」と返すと、アーネは、

「5-3-2でもいいけどね~」

と、いたずらな表情で言ったのです・・・ッ!


4+3+3は10。

5+3+2も10。

この発言を聞いた時、アーネが何の気なしにサラリと言ったので、私も「だれが5で、だれが2なんや」とツッコミを入れてしまったのですが、後からタマゲたたのです。

今でも、あの瞬間に

「なんで、4+3+3も、5+3+2も同じだと“わかった”の?」

と聞かなかったのか後悔していますが、日付が変わってから上の質問をすると、

「え~、わかったんだもん」

としか答えてくれません。

この答えはただの偶然かもしれません。
機を見て、「4-3-3」と「5-3-2」を本当にわかっているかどうかのシチュエーションを用意したいと考えておりますが、
その後のアーネの足し算を聞くかぎり、やはり偶然だったかなぁという想いが強くなっています。

加えて言うと、
アーネの興味は算数よりも、
図工の方にあるようで、
デコポンの実を並べているうちに、

「みて。わらったかおと、ないたかおだよー。」

と表情に見立てて遊んでおりました。




あぁ、子どもの見立ての力はなんとステキなんだ、、、、とひとりごちてしまって、アーネの「できる」と「わかる」の解明には未だ至っておりません。

以上、親バカが最前線からお伝えしました。


※このような日常生活の中で学べるモノゴトはけっこうあると感じています。
似たような出来事についての記事は、こちらもご覧下さい↓

未測量 ~幼児期の算数教育に必要な「原体験」


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