【往復書簡】他人に迷惑をかけないで、チームで仕事をしたい?

長尾さん、こんにちは前田です。
今日は「他人に迷惑をかけない」ということについて聞いてみたいことがあり、ブログを書きました。

長女のアーネ(6歳)が小学校に入学して数日経ってからだったかと思いますが、学校から「親が子どもに望むこと」を書いてほしいと、カードが回ってきました。僕は学校の授業内容がわかって、元気に楽しく過ごしてくれれば、まずは十分だと思いましたが、同じ時期に福岡伸一さんの『動的平衡ダイアローグ』を読んでいて、こんなくだりを見つけました。

福岡さんと『銃・病原菌・鉄』の作者ジャレド・ダイアモンドさんとの対談で、ある子どもを持つ親向けの調査で、日本人の親が子どもに望む徳目として、

「ウソをつかない、盗みをしない、他人に迷惑をかけない」

というものがあり、ダイアモンドさんが、それは世界的に見ても特殊であるという指摘をしていました。(ちなみに、これらの徳目は、ユダヤ教やキリスト教の十戒にも入っていないのだそうです)
まぁ、ウソと盗みはその通りと思いつつ、「他人に迷惑をかけない」というのが引っかかりました。

僕は色んな会社のプロジェクトに関わってきましたが、どんなプロジェクトもチームで仕事をします。チームには色んな人がいて、自分の任せられた業務を完璧にこなす人、自分の仕事と明確に定められていない仕事をやってくれる人、まだ業務上の知識が十分ではない人、どうしても時間にルーズな人など、知識やスキル、性格などが様々に異なる人々がいます。

こうした人々と一緒にプロジェクトを進めていくにあたり、ぼんやりと心にひっかかっていたことが、「他人に迷惑をかけない」徳目と関係があるように思うのです。

自分の与えられた領分を守る。担当の業務をミスなく行う。これはこれでとても大事で、プロジェクトを進めていく上ではこれだけでも十分ありがたいことです。
で、この「自分の領分を守る」というものが、「他人に迷惑をかけない」という徳目とふか〜いところでつながっているように思います。
なにがどうつなかっているかを整理するために、ちょっと図にしてみました。


「他人に迷惑をかけない」は「自分の領分を守る」とほぼ同義だとします。
「自分の領分を守る(ネガティブに表現すれば、領分から出ない)」の対義語を、「自分の領分を出る(ネガティブに表現すれは、他人の領分を侵す)」としました。

では、「他人に迷惑をかけない」の対義語は何かというと「他人に迷惑をかける」になるでしょうか?誰もが他人に迷惑をかけたいとは思わないでしょうから、表現を変えてみました。

「他人に迷惑をかける」を、「他人の世話にならない」としてみると、対義語として「他人の世話になる」いう表現がしっくりくるように感じます。

ここで面白いなぁと感じると同時に悩んでしまうのは、自分の領分を守る方も、自分の領分を出る方も、一方は他人に迷惑をかけない・他人の世話にならないことでチーム(学校であればクラスメイト、社会であればひとさま?)に貢献しようとし、一方は他人の他人の世話になる・他人の世話をすることで貢献しようとしているのとです。
最終的な目標は同じなのに、一方は「しない・されない」ことで。もう一方は「する・される」ことを指向する。
両者の違いを今一度整理してみます。



上述の比較項目以外に、「しない・されない」方は、「しない・されない」ゆえにエネルギーを使わなくても、コミュニケーションを取らなくても済みそうです。
でも、「する・される」方は自分に何ができるかを伝え、他人がどんな助けを欲しているかわ知り、或いは自分がどんな助けを必要としているかを表明するために、他者とコミュニケーションを取らざるを得ません。求められていない助けや世話をすることは却って迷惑になるからです。すごくエネルギーを使うイメージがあります。面倒くさいと感じる人もいそう。

「しない・されない」スタイルは、エネルギーをロスしないメリットがありますが、マイナスを出さない、ミスをしない(できない)ことが前提になってこないでしょうか?その一方、「する・される」スタイルは、マイナスやミスを補い合うイメージを持てそうです。

一つのプロジェクトを進めていくにあたり、誰もが他者に迷惑をかけないよう、自分の領分を完璧に守るというスタイル。
他者の領分に手を出しにいく(自分の領分を出る)ことで、他者を助けにいく(自分も助けてもらう)というスタイル。

いったいどちらがいいんでしょう?

これからの世の中、社内の仕事でも縦割り部署ではなく部署横断的な仕事が。企業間やフリーランスの壁を越えた仕事が。人種や価値観や文化の異なる人々との。レベルの差はもちろん、特性やOS、プロトコルの違う多様な人々との仕事がどんどん増えてくると思います。
そして、かつて営々と築き上げてきたビジネスモデル、ルーティンワークが崩れ、新しい、未知なプロジェクトに挑むことが間違いなく増えています。
異なる人々と未知なことをするとなれば、そこには時間もかかるし、失敗もついて回ります。
そんな環境で、いかにチームとして挑戦を支持できるか。恐れずに失敗できるか。寛容でいられるか。不測の事態に応えられるか。

どちらのスタイルがそれに適しているのか?
はたまた、両方のスタイルの悪い部分を除き、良い部分を結合することはできるのか?
あるいは、他にもっと良い方法があるんじゃないか?
そんなことを長尾さんに聞いてみたいと思いました。


最後に話をアーネのことに戻しますと、親がどちらのスタイルを子どもに望むかによって、親の子に対する気持ち、言葉、振る舞いになって現れてくるとこを思うと、チームがどうなっていくかの諸元は、家庭にあるんじゃないかと責任の重さに身がきしむ思いになり、それが学校を経て大人になったとき、どれほど大きな差になって現れてくるかということに、怖さと責任の重さを感じたのです。

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