アーネが耳をふさぐのを咎めたら、聞いた話が耳から抜けていかないようにするためだった。

入学前、小学校ごっこをアーネとしている時に、「どんな時に手をあげるの?」とアーネが質問したことがありました。
『アーネの学校ごっこでドキッとした、「質問は誰の、何のためのもの?」』

その時に、先生が生徒に答えを求める時が一番多くて、自分の考えを確かめるようなことのために手をあげたりしないなぁと思ったことがありました。
そのことを入学後に思い出し、アーネと風呂に入っている時に、「わからないことや、先生がこう言っているけどアーネはこう思うなぁと気になったら、手を挙げて先生に質問してええんやで」と話し始めると、アーネの顔が段々けわしくなってきて(という風に私には見えました)、両耳をふさぎました。

私は思わず、「なんやその態度は!」と怒ってしまい、そんなに話を聞きたくないのかと尋ねました。

するとアーネは、

「言われたことをいつも忘れちゃうから、(ぬけていかないように)耳をふさいだ」

と答えたのです。

一瞬、アーネのこの答えが本当かどうか迷いました。
抜けていかないようにするには、片耳はあけて、もう片方は閉じていなければいけないが、果たしてそうやって閉じていただろうか?でも両方閉じていたように見えたぞ・・・。
ウソかも知れないし、本当かもしれない。
ウソならなおのこと怒っちゃうところ、待て待て、それはそれでそれっぽい言い訳ができて賢く(こざかしく)なっているのではないか・・・などと考え、この時は、「そのジェスチャーは相手に、「聞かない」という意味に誤解されるのだ」と言うに止めました。

今も本当かどうかわかりませんが、親の視点だけでモノを言ったり見たりしてはいかんと反省しました。


話はうって変わります。

先日、文化服装学院で動画についての授業を二週にわたって行ってきました。
スタイリストなプレスなど、クリエイターではない職業に就くことを希望している学生たちが相手です。

この時の学生たちの授業態度には閉口しました。

スマホをいじる。教室に備え付けられているPCでネットサーフィン。隣の席の学生とのおしゃべり。

日頃、お金を払って参加する社会人を相手にセミナーやワークショップをやっている私にとって、「こんな自分の話す内容がささらないのか。興味をひかないのか・・・」とショックを受け、反省をする一方、もうちょっとちゃんと聞いてほしいな・・・という欲がありました。

第一週はそうした聞いているのかいないのかわからない学生たちの座学で終了し、第二週に動画制作ワークショップを行いました。
前週の授業の様子から、「動画は完成しないかもしれないけど、当人にやる気がなかったら仕方ないな・・・」と諦めというか投げやりモードが入っていました。

ところが、いざワークショップでできあがってきたものを見てビックリ。
前週の授業で話した動画撮影のポイントを抑えた作品をつくりあげてきたのです。
ワークを終えて教室に戻って来た学生たちも、「これ面白いっすね」等と声をかけてきます。

思わずこれが頭に浮かんだよね。


こちら側に、「(相手に)こうやって授業を来てほしい」という欲(要望)がありますが、相手にそれを強制することはできません。
かつては、教え教えられるものの関係はあくあるべしといった強権的なものがあったかも知れませんが、本が著者の意図に関わらず、読者が読者のいいように本を読むように、授業も教える側が望むような態度で受けられるものではないのかも知れません。
ただ、同じ時間と場所に互いがいるという点において、最低限、あなたが伝えたいことはこちらに伝わっているよ・いないよいった意思がわかるようになっていてほしいと思います。それがその後の授業パフォーマンスやケアに影響するようであれば、そうした態度はとっておいた方が誤解を招かないし、得じゃないかなぁとオジサンは思う訳であります。

なんて経験をしたことで、アーネの耳をふさぐジェスチャーが思い出され、つくづく人間のコミュニケーションとは何と難しいことかと、思いを新たに致しました。

以上、親バカが最前線からお伝えしました。

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