標準語の型枠からこぼれた“らしさ”を表現する方言



『翻訳できない世界のことば』という本を書店で見つけた時、標準語ではどうしてもその感じを表現しきれない郷土(三重県南部)の方言があることを思い出した。

例えば、
「おでんの大根に味がしみこんでおいしい」の「しみこむ」ことを、

「しゅんどる」

と言う。

「この大根、ようしゅんどるな」

と言わないと、ダシがしみ込んだ大根の美味しさを表現しきれない気がする。
(「しゅんどっておいしい」とまで言わず、「しゅんどる」まででおいしさが表現されている気がする)

甘酒の酒かすが湯呑の底に沈むサマは、

「とごる」

と言う。「沈殿する」ではいかにも味気ない。その状態を表す“らしさ”が足りてない。

初春のころ、陽光につつまれた暖かさは、

「ぬくたい」

の方が、ぬくぬくとした温かさらしさが伝わる気がする。


アーネとジージョのイヤイヤ期。これがわが子かと思うくらい、イライラして嫌な感情が沸き起こってくる時、ひとこと

「どもならん」

と言うと、スッと毒気がぬける。或いは苦笑に変わる。
「ムカつく」では嫌な感情がそのまま出てしまう。


祖母は自分(私)に何かをしてくれて、ありがとうと言うと、「気にするな」、「かまわない」という意味で、

「だんねえ、だんねえ」

と口にした。
気にしないでよりも、だんねえの方が重くないように感じる。

「ごちそうさまでした」の後は、

「よろしゅおあがり」

だった。

モノゴトを表現する時、標準語は固い枠のようだが、方言はその枠におさまらなかった、或いはこぼれ落ちた“らしさ”をより表現しているように思う。

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