「知識の教え込み」と「方法の手渡し」。


教える。学ぶ。ということの意味や内容が、かなり変わってきているような感じがする。
社会人向けのセミナーを例に取ると、たいてい参加者よりもそのテーマについて早くから関わり、多くを知っている人が、自分より知らない者どもに教える。参加者もそれを拝聴する、という構図になる。これは学校であっても変わらない。

これを仮に知識の教え込み、と呼んでみる。
この一年、僕はweb動画の企画・制作や、展示会のブース出展、マーケティングオートメーションのシナリオ制作、BtoB企業のセミナーコンテンツ、プロジェクトマネジメントといったテーマのワークショップを行ってきた。
これらのワークに共通するのは、参加者が知らない知識を教え込んだのではなく、各テーマで果たしたい目的(web動画であればCVRに寄与するとか、展示会ブースであれば確度の高い見込度を獲得するとか)を達成するための「方法」を手渡してきた、ということだ。

「知識の教え込み」と「方法の手渡し」。

知識の教え込みは教える者と聞く者という一方通行的な関係だが、方法を渡して、参加者がその方法を使って頭と手を動かしたものを見ると、方法を手渡した側の方も、「こんな使い方をしたのか」、「こんな使い方をして、こういう成果・表現を導いたのか!」と驚き、教えられることが頻繁にある。最低限の知識は教えるけれど、「ともに学んでいる」感じがする。

でも、この方法を渡すということを、2~4時間のリアルな場で行うことは、けっこうコワイ。

一方的な教え-聞く関係でいる間は、その場や時間をかなり管理・コントロールできる。
方法を手渡してしまうと、どんな結果が出るかわからないし、自分の想定外のモノが出てくるなど、アンコントローラブルな要素が増える。

仮に自分の想定外のモノが出てきたとして、それに教える者としての自分が答えられなかったらどうする?
恥ずかしいじゃないか。権威失墜ではないか。
そう思うと、手放すのがコワくなる。知っているコトだけを教えたくなる。

世の中のセミナー講師は、受講者のレベルが揃っていないとやらないとか。
決まったテーマ・ルールでなければ受けないという人がいる。
それがその方にとっては、参加者に提供するクオリティを約束することなのかも知れないが、上述したような「教え込む」という価値観は少なからず影響していないか。

この教える者の権威や威厳というものが最初からない人だと、そこまでのコワさを感じない。
共に学ぶことを楽しめる―、と僕は思う。

この一方的な「教える-聞く」という関係。
聞く者を「教え込む対象」とする考え方・構造は、長い間人々に根付いていて、その最たるものが教師と学生という関係のある学校なのではないか。或いは親と子という関係のある家庭なのではないか。

そんな価値観・構造が、ICTの活用によって変わると言われているが、まだよくわからない。
ただただ、曇りなきマナコで子どもと接していれば、そんな価値観にはならない気がする。

知らんけど。

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