期待する言葉を、答えを言わせてないか?問いを立てさせるのでなく、問いを与えてしまってないか?

長女のアーネを育てておりますと、よく怒ることがありますが、そんな時、「なぜ自分が怒られたのか?」という答えを、私(親)が言わせたいことを言わせるように仕向けてしまうことがあります。
自分が期待することを言わせたいと思ってしまう。

これはあきません。

子どもの思考を止めてしまうし、4歳児5歳児といえど、空気を読んで親の望むように答えようとしてしまいます。

私はアーネが4歳ごろから発し始めた「なんで?」を記録し続けておりますが、時々おせっかいにも、「これはなんでこうなっているんだろうね?」とか、「なんでこうなったんだと思う?」というような、問いを与えてしまっています。

これもあきません。

必要なのは、子どもの好奇心の赴くままに任せることと、問いを与えるのではなく、問いを立てられるように導いていくことだと思うのです。


話しを転じて、私は一昨年あたりから人にモノを教える仕事をするようになり、色々と試行錯誤をしておりますが、「自分が期待することを言わせたい」ということと同じように、学び手に対して、

「こう答えてほしい」

という問いかけ方や進め方も、あきません。

学び手の思考を止めてしまいますし、学び手にとっても教え手にとっても、想定外の質問や発言は、実はその学びにとって新しい視点による考え方や価値観を得るチャンスになるかも知れないからです。

「期待する言葉を言わせる」、「こう答えてほしい方向に誘導する」、「問いを与える」という行為は、何事にも最短ルートや最適化、効率化を求める世の中の影響を大いに受けているのかも知れませんが、やっぱりこれはあかんやろと思います。

子どもを育てていると、特に。

自分でモノゴトを考えられるようになる。工夫するようになる。
既存の問題を疑う。問題をみずから創り出せるようになるには、問答をかさねたり、「これはこうじゃないか?」と仮説を立てて、失敗したりしながら試行錯誤の体験をするための時間だったりするはずで、そうするための方法をしっかりと考えたいと思う、2017年の始まりであります。


このブログの人気の投稿

オラリティとリテラシー。~子どもが世界を知る二つの経路

著者が解説『プ譜』とは何か?概要とテンプレートを紹介します(動画あり)

高崎線の四人ボックス席で帰るプロジェクト 後編