テンプレートの子どもと教育効果へのメリデメについて

8月上旬、読書感想文の「テンプレート」、「マニュアル」に関する二つの対照的なポストがSNSで注目を集めていました。

既に削除されていますが、原文をコピペして参考URLをつけます。
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小5息子の夏休みの宿題。難関の1つが読書感想文。
授業でまだ作文指導のない1年生から課され、
今年はこんなマニュアルが学校から!
これに従順にならえば恐ろしく画一的な感想文がいっせいに提出されることでしょう。
ここに一体どんな教育的効果が?
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(※参考)

もう一つのポストがこちら。

この二つのツイート(一つは削除済)は、子どもが読書感想文を書くためのテンプレートに対する
否定的な感想(前者)と、肯定的な意見と実践(後者)でした。



私はこれまで2つの視点から、テンプレートというものに関わってきました。
一つは、「プロジェクトの活動をテンプレートで記録することで、インプットもアウトプットもしやすくなる」という仮説でもって、新規事業のプロジェクトマネジメントを行ってきました。
もう一つは、1Rollという、業種や目的に合わせてカット割や絵コンテを準備した「テンプレート」で、映像制作経験がない人でも、ビジネスに使える動画を簡単に撮影ができるという製品のプロジェクトマネジメントをしています。

こういった活動をしているものですから、テンプレートというものについて日ごろ考えることがあり、またテンプレートについての態度も肯定的なのでありますが、この二つのツイートを見て、テンプレートというもの関する以下の3つについて考えてみたくなりました。

①テンプレートは本当に画一的な内容になってしまうだろうか?教育効果はないのだろうか?

②批判すべきは「構成のテンプレート」ではなく、「精神のテンプレート」ではないか?

③「できる」ためのテンプレートと、「わかる」ためのテンプレートの両方が必要なんじゃないか?

本日のエントリはこの3つについてつらつらと考えたことを書いております。
すこし長くなりますが、お付き合い頂ければ嬉しいです。



■テンプレートは本当に画一的な感想文になってしまうだろうか?教育効果はないのだろうか?

まず、テンプレートというものに対する反応に、否定的なものと肯定的なものがあることを整理しておきたいと思います。

否定派は内容が画一的になる、創造性をなくす、自由さがないといったデメリットを。
肯定派は考えの道筋がハッキリする、取り組みやすくなるなどのメリットを強調します。

このメリットとデメリットはテンプレートの作り方によりますが、テンプレートには大きく、「構成のテンプレート」、「精神のテンプレート」、「概念のテンプレート」の3種類があると考えます。


先にここで考えたいのは「構成のテンプレート」についてです。

BooksAndAppsさんの記事では、頭出しのフォーマットや「小見出しを先に書く」といった手続きが提供されることで、読書感想文は書きやすくなるし、子どもが書くことを楽しめるようになる。また自分なりのメッセージを発見しやすくなるということが書かれていました。

まず、この意見に賛成です。
このような感想文なら感想文を書きやすくするための手続き、手順が示されているものを、仮に「構成のテンプレート」と呼びましょう。

テンプレートが画一的な内容になるかどうかの一つ目のポイントは、この「構成のテンプレート」の作り方によります。
大雑把にいえば、テンプレートが極端に書き手の書く余白を狭めている、穴埋め式のようなものであれば、そりゃあ画一的にもなるでしょう。

極端な例を挙げればこんな感じです。

「私は( 主人公の名前を書きましょう )のその時の気持ちを考えると、心の中から( 感情の種類を書きましょう )の感情がこみ上げてきました。」

でも、こんな穴埋め式テンプレートは、正答を求めるテストの穴埋め問題以外ではあり得ませんよね。くだんの感想文テンプレートもこんな作り方はしていません。

テンプレートといっても、それを受け止める書き手の価値観、環境、文脈などは異なるわけで、小見出しを先に書くとかいった手順、手続きを示すことで、同じテンプレートであっても、書き手の価値観や文脈を反映した、異なる感想文が出てくるはずです。
これは私が行っている動画制作ワークショップでもそうで、同じテンプレートで同じ商品を撮影しても、それぞれ着目するポイントが違っていて、できあがる動画の内容はそれぞれ異なったものになってきます。

ただ、このテンプレートが穴埋め方式のような、書き手の関与できる余白が極端に狭いと、書き手のもつ文脈が反映されにくいというか、書き手とのインタラクションが起きにくく(小さく)なってしまいます。
これがテンプレート否定派が危惧する画一的な内容になってしまうのではないかという不安の素になっているのではないでしょうか。


そして教育効果についてですが、テンプレートにはテンプレートの教育効果があると考えます。
テンプレートという手続き、手順に則るということは、クラスメート全員がそれに則っていれば、
「前田君の感想文はこうなっていて、僕の感想文はこうなっている。その違いはどうやって生まれたんだろう?」
といった、他者の感想文との違いの理由がよくわかるようになるはずです。
同じ手続きを踏んでいても、彼はこう考えるのか、彼女はこういったことに感動するのかといった、他者との違いへの気づきがあり、そこから他者理解というものが育まれていくのではないでしょうか。

そして、このような教育効果を求めるのであれば、夏休みの宿題として書きあげた感想文を先生に提出し、優秀作品のみ表彰されて終わりにするのではなく、同じテンプレートに則った感想文を、クラスで共有し、吟味する(時間を取る)ことが大切なことは言うまでもありません。


■批判すべきは「構成のテンプレート」ではなく、「精神のテンプレート」ではないか?

次に、もう一つのテンプレートが画一的な内容にしてしまうのではないかという懸念の原因になり得るものについて、
「精神のテンプレート」を取り上げたいと思います。
「構成のテンプレート」に対する「精神のテンプレート」。
精神はものの見方やマインドセットと言っても良いです。

感想文を例にとれば、

・文の最後は前向きな意見やメッセージを書かなければならない。
・子どもは素直でなければならない。親に対して正直でなければならない。
・男性は常に強くなければならない。女性はたおやかでなければならない。
・障碍者には憐れみの気持ちを示さなければならない。
・老人には常に尊敬のいたわりの念を持たなければならない。
・お国のためにという気持ちを最も尊いものと感じなければならない。

こういった、ものの見方や価値観が固定されているものを、精神のテンプレートと呼びたいと思うのですが、こうしたマインドセットは教員にも親にもあって、意識的にも無意識的にも子どもにテンプレートとして与えてしまっていないでしょうか。
しかし、物語というのはとても豊かで、多様な本を読めば、このような精神のテンプレートがいかに無意味なものであるかを知ることができます。

感想文を書く目的というのは、自分が本を読んで感じたことを的確に表現できるようになるといったものがありましょうが、こうした「精神のテンプレート」から自らを解き放たせるという目的もあるような気がしてまいりました。


■「できる」ためのテンプレートと、「わかる」ためのテンプレートの両方が必要なんじゃないか?

最後は「概念のテンプレート」です。
「概念のテンプレート」をわかりやすく説明するため、「構成のテンプレート」を再び持ち出しますと、
「概念のテンプレート」は内的で、「構成のテンプレート」は外的。
概念であるのに対して具体。
概念を具体物にしたものが「構成のテンプレート」で、「構成のテンプレート」の素となっているのが「概念のテンプレート」と言ってよいと思います。

つまり、「構成のテンプレート」には、「こうやれば感想文が書きやすくなるんじゃないか」、「思考が整理しやすくなるんじゃないか」といった思考の試行錯誤があり、その思考の結晶のようなものが「概念のテンプレート」だと思うのです。

それゆえに、「構成のテンプレート」は「やり方がわかる」-「手続きの修得」すなわち、「できる」ためのテンプレートで、「概念のテンプレート」は「わけがわかる」-「意味・内容の理解」すなわち、「わかる」ためのテンプレートであると考えます。


テンプレートが画一的な内容になるのではないかという懸念の一つに、創造性をなくすといったものがあると思いますが、これは「構成のテンプレート」が「できるようになるためのテンプレート」であることが原因だと思います。
「構成のテンプレート」は、なぞこのテンプレートがこういう形式になっているのかということをわからなくても、感想文なら書くことが。動画なら作ることができるようになっています。
これまで述べたことと矛盾することを言いますが、頭をそんなに使わなくても“できてしまう”のです。

しかし、それではあまりにもったいないし、付け焼き刃にすぎません。

「構成のテンプレート」には、たぶん応用がきかないという弱点がありますが、その弱点を克服することが「構成のテンプレート」の素となった「概念のテンプレート」を理解することだと思います。

「概念のテンプレート」は考えの素のようなものですから、応用を可能にする公理性のようなものがあります。
この公理性に基づいて、いったん自分の考えを分類したりして枠を広げる。或いは引き出していく。
そうして引き出し、広げたものを「構成のテンプレート」に落とし込んでいく、といったイメージを私は持っているのですが、私の動画ワークショップを例にとって解説しましょう。
動画を作成しやすくするための構成はあるのですが、その構成のうち何カット目が2秒である理由を説明します。
その2秒の理由がわかると、ただ漫然と2秒間対象を撮影していたのが、その2秒の理由を活かすための撮影の仕方、カメラワークを行うようになります。
同じように、対象を撮影するという指示がテンプレートにあっても、対象は千差万別ですから、そこには動画化価値の高さというものを考慮せねばなりません。
この動画化価値という概念を説明するのとしないのとでは、撮ったものの出来がぜんぜん違う。
(※映像資料をお見せできないのが残念なのですが、ここについてもっと知りたいぞ、疑問があるぞという方はぜひメッセージください。)

ここで申し上げたいことは、「できる」ためのテンプレートは、たしかに取り組みやすくさせる効能があるけれども、それだけでは要領よく「やり方」がわかっただけで、ややもすると応用がきかなくなる、人まねをしやすくするといった安易な方向に流れてしまう可能性がある。それを避け、より豊かな体験をするためには「概念のテンプレート」-「わかる」ためのテンプレートも合わせて提供する必要があるのではないか?ということです。


ずいぶんと長くなってしまいましたが、私は以上のようなことを胸に、最近「パパ、かみねんどくさいね。。」と言いだした4才娘に相対していきたいと考えている次第であります。

以上、親バカが最前線からお伝えしました。



●余談だが
僕の10歳下の弟は、小学校の夏休みの宿題で読書感想文が出たとき、小学校の教員だった母に「感想文ってどうやって書くん?」と聞いたそうだ。
母が「あんたが本を読んで、僕はこう思いますっていうのを書くんやで」と答えたところ、原稿用紙に書名と自分の名前を書いた後、「僕はこう思います」とだけ書いて出した愛すべきキャラクターなのだが、感想文というのは指導要領に定められたものもなんでもなく、書ける子どもが書く、といった程度のものらしい。
それが夏休みの宿題として出されたことで、ずいぶんオフィシャル感が出てしまったのだろうけど、いずれにしても、感想文を書けないくらいで悩む必要はないのだと思う。

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