【実践を記録すること、物語ること、コミュニティをつくること】 実践研究会に行ってきた
みなさんは育児中の子どもの写真を、夫婦で共有していらっしゃいますか?
私は夫婦が育児中の写真を共有することには、大きなメリットがあると考えており、
その考えをさらに後押ししてくれたイベントがありましたので、簡単にレポートします。
■子どものモノガタリを夫婦で共有することの意義
イベントレポートをする前に、まず、私が考える夫婦で子どものモノガタリを共有することのメリットは大きく以下の2つです。
(1)夫婦のコミュニケーションを深める。
(2)子どもと接する機会が少ないパートナーの、子どもとのコミュニケーションのネタを得る。
(1)は後述しますので、(2)について述べますと、妻に比べ娘と接する機会の少ない私が、帰宅後や休日に娘と接する時、妻から送ってもらった「寝返りを始め」たり、「ハイハイがうまくできな」かったりする様子を撮った写メを見ておくことで、
「寝返りをいやがらなくなったから、一緒にグルグル寝転がってみよう」とか、
「ハイハイの手がまだ出ないのだったら、僕がハイハイのお手本を見せてあげよう」
と考えることができる、ということです。
ともすれば、その写真を見て、
「めっちゃカワイー゚+.(✿≍∀≍✿)゚+.゚!」
と悶絶し、溺愛度を深めるのも楽しいのですが、
娘が気に入っているからと、いつまでも同じおもちゃ、同じ遊びを繰り返しているようでは、娘に飽きられてしまうことは必定。それは娘の成長、発達の糧にはならないように思います。
(ついでに言うと、昔のネタにあぐらをかいて精進しない芸人のような、そんなつまらない父親に私はなりたくないのです)
■娘と接するスキルのさらなる熟達を目指す!
こうした写真から子どもとのコミュニケーションのネタを探すことの意義を感じていた折、
参加したのが、東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室主宰の、
【実践を記録すること、物語ること、コミュニティをつくること】ACADEMIC HACK!実践記録研究会(2012/7/6)でした。
このイベントはTwitterで知り、当該サイトを見てみると、野外保育の様子を写真で記録し、そこでの子どもたちの物語を綴っていらっしゃる写真家であり、保育士の小西貴士さんの実践記録とトークを聞き、(以下引用)
“小西さんの撮影なさった実践記録を魅せて頂きながら、学習者の学習実践を記録するとはどういう意味があるのか?について皆さんとゆるゆると対話する機会にしたいと考えています。”
“学びの実践を「記録」すること、そして「物語ること」は様々な可能性を持っていることといえます。
(中略)
第二に、そうした記録は、学びを提供する側にとっても重要な学習の契機です。人は記憶・記録されたものを通してしか、振り返ることができないから。
実践の記録は、学びを提供する側の、さらなる熟達にもつながる可能性があります。”
(全文はこちらの告知ページにて→http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/06/76_academic_hack.html)
というものでした。
そこで思ったのは、「学びを提供する側」を「親(私)」に置き換えることで、妻が記録してくれた娘の写真から、私が娘と接するスキルのさらなる熟達につながるかも知れないではないか、と。
とまぁ、こうした期待を持って、研究会に参加してきました。
研究会の構成はざっくり以下のような感じで進みました。
(1)小西さんの写真を、小西さんの朗読(時々バックミュージック)と共に鑑賞
(2)鑑賞した写真について、一般参加者のみなさんと3~5名のグループをつくり、ディスカッション
(3)中原先生のまとめ
内容としては(1)がメインコンテンツになっており、率直に申し上げて、子どものいきいきとした表情や姿を捉えた小西さんの写真がとても素敵で、なおかつ朗読とバックミュージックによって感動的に演出されていたため、写真から学びや気づきを得たいというモチベーションで参加している私にとっては過分にポエティックでした。
(※もちろん、これは私個人のモチベーションとのアンマッチなので、内容の良し悪しとは全く関係ありません。小西さんの素敵な写真と文章をご覧になりたい方はこちらの書籍をどうぞ→『子どもと森へ出かけてみれば』)
このため、私が期待していた「実践の記録は、学びを提供する側の、さらなる熟達にもつながる可能性があります。」という部分にはなかなか話が進みませんでした。
■夫婦は子育てにおけるステークホルダー
ここで、最初に私が書いた夫婦が子どものモノガタリを共有するメリットの(1)の部分、
「夫婦のコミュニケーションを深める」ことについて、
研究会の最後に、中原先生が「実践を記録することの意味」をまとめられた資料から得るものがありましたので、ご紹介します。
(※以下引用)
1.学習者にとってのかけがえのない「記憶」を構成すること
2.実践の提供主体に自らの行為の意味を省察する契機を与えること(実践者にとっての成長)
3.実践に関するステークホルダーの共通キオクを形成すること(親と子どものコミュニティ) ←ここ重要
4.実践への新たな関与者・協力者の誘因となる事 ←ここも重要
5.実践の継続性、世代継承性にとっても密かに重要
そう。
夫婦は子育てにおけるステークホルダー(利害関係者)なのです。
戦友なのです。
そう考えれば、共有するモノガタリは常に楽しいものばかりである事はなく、
時に大変な子育ての様子を写真に撮って、働いているパートナーと共有することも必要ではないでしょうか?
ともすれば、写真は楽しいものばかりになってしまいます。
朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる生活をしていると、スヤスヤ眠るかわいいわが子の姿しか見ないわけで、それは真にモノガタリを共有するステークホルダーにはなりえないのだと思います。
(なんか、勇ましく書いてますが、要は育児のうわっつらしかなめてないイクメン面した父親が多いことを揶揄しているのです)
子育ての喜怒哀楽を写真で、写メで残し、共有することにより、夫婦は共に育児を楽しく、大変なことも乗り越えることができるようになるのではないでしょうか。
また、こうしたモノガタリを本人のプライバシー意識と自己責任に応じて周りの人びと(友人なのか、お隣さんなのか、行きつけのお店のおかみさんなのかはわかりませんが)公開していくことで、必要とするサポートを得られるようになるかも知れないと思いました。
私は夫婦が育児中の写真を共有することには、大きなメリットがあると考えており、
その考えをさらに後押ししてくれたイベントがありましたので、簡単にレポートします。
■子どものモノガタリを夫婦で共有することの意義
イベントレポートをする前に、まず、私が考える夫婦で子どものモノガタリを共有することのメリットは大きく以下の2つです。
(1)夫婦のコミュニケーションを深める。
(2)子どもと接する機会が少ないパートナーの、子どもとのコミュニケーションのネタを得る。
(1)は後述しますので、(2)について述べますと、妻に比べ娘と接する機会の少ない私が、帰宅後や休日に娘と接する時、妻から送ってもらった「寝返りを始め」たり、「ハイハイがうまくできな」かったりする様子を撮った写メを見ておくことで、
「寝返りをいやがらなくなったから、一緒にグルグル寝転がってみよう」とか、
「ハイハイの手がまだ出ないのだったら、僕がハイハイのお手本を見せてあげよう」
と考えることができる、ということです。
ともすれば、その写真を見て、
「めっちゃカワイー゚+.(✿≍∀≍✿)゚+.゚!」
と悶絶し、溺愛度を深めるのも楽しいのですが、
娘が気に入っているからと、いつまでも同じおもちゃ、同じ遊びを繰り返しているようでは、娘に飽きられてしまうことは必定。それは娘の成長、発達の糧にはならないように思います。
(ついでに言うと、昔のネタにあぐらをかいて精進しない芸人のような、そんなつまらない父親に私はなりたくないのです)
■娘と接するスキルのさらなる熟達を目指す!
こうした写真から子どもとのコミュニケーションのネタを探すことの意義を感じていた折、
参加したのが、東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室主宰の、
【実践を記録すること、物語ること、コミュニティをつくること】ACADEMIC HACK!実践記録研究会(2012/7/6)でした。
このイベントはTwitterで知り、当該サイトを見てみると、野外保育の様子を写真で記録し、そこでの子どもたちの物語を綴っていらっしゃる写真家であり、保育士の小西貴士さんの実践記録とトークを聞き、(以下引用)
“小西さんの撮影なさった実践記録を魅せて頂きながら、学習者の学習実践を記録するとはどういう意味があるのか?について皆さんとゆるゆると対話する機会にしたいと考えています。”
“学びの実践を「記録」すること、そして「物語ること」は様々な可能性を持っていることといえます。
(中略)
第二に、そうした記録は、学びを提供する側にとっても重要な学習の契機です。人は記憶・記録されたものを通してしか、振り返ることができないから。
実践の記録は、学びを提供する側の、さらなる熟達にもつながる可能性があります。”
(全文はこちらの告知ページにて→http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/06/76_academic_hack.html)
というものでした。
そこで思ったのは、「学びを提供する側」を「親(私)」に置き換えることで、妻が記録してくれた娘の写真から、私が娘と接するスキルのさらなる熟達につながるかも知れないではないか、と。
とまぁ、こうした期待を持って、研究会に参加してきました。
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/06/76_academic_hack.htmlより転載 |
研究会の構成はざっくり以下のような感じで進みました。
(1)小西さんの写真を、小西さんの朗読(時々バックミュージック)と共に鑑賞
(2)鑑賞した写真について、一般参加者のみなさんと3~5名のグループをつくり、ディスカッション
(3)中原先生のまとめ
内容としては(1)がメインコンテンツになっており、率直に申し上げて、子どものいきいきとした表情や姿を捉えた小西さんの写真がとても素敵で、なおかつ朗読とバックミュージックによって感動的に演出されていたため、写真から学びや気づきを得たいというモチベーションで参加している私にとっては過分にポエティックでした。
(※もちろん、これは私個人のモチベーションとのアンマッチなので、内容の良し悪しとは全く関係ありません。小西さんの素敵な写真と文章をご覧になりたい方はこちらの書籍をどうぞ→『子どもと森へ出かけてみれば』)
このため、私が期待していた「実践の記録は、学びを提供する側の、さらなる熟達にもつながる可能性があります。」という部分にはなかなか話が進みませんでした。
■夫婦は子育てにおけるステークホルダー
ここで、最初に私が書いた夫婦が子どものモノガタリを共有するメリットの(1)の部分、
「夫婦のコミュニケーションを深める」ことについて、
研究会の最後に、中原先生が「実践を記録することの意味」をまとめられた資料から得るものがありましたので、ご紹介します。
(※以下引用)
1.学習者にとってのかけがえのない「記憶」を構成すること
2.実践の提供主体に自らの行為の意味を省察する契機を与えること(実践者にとっての成長)
3.実践に関するステークホルダーの共通キオクを形成すること(親と子どものコミュニティ) ←ここ重要
4.実践への新たな関与者・協力者の誘因となる事 ←ここも重要
5.実践の継続性、世代継承性にとっても密かに重要
そう。
夫婦は子育てにおけるステークホルダー(利害関係者)なのです。
戦友なのです。
そう考えれば、共有するモノガタリは常に楽しいものばかりである事はなく、
時に大変な子育ての様子を写真に撮って、働いているパートナーと共有することも必要ではないでしょうか?
ともすれば、写真は楽しいものばかりになってしまいます。
朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる生活をしていると、スヤスヤ眠るかわいいわが子の姿しか見ないわけで、それは真にモノガタリを共有するステークホルダーにはなりえないのだと思います。
(なんか、勇ましく書いてますが、要は育児のうわっつらしかなめてないイクメン面した父親が多いことを揶揄しているのです)
子育ての喜怒哀楽を写真で、写メで残し、共有することにより、夫婦は共に育児を楽しく、大変なことも乗り越えることができるようになるのではないでしょうか。
また、こうしたモノガタリを本人のプライバシー意識と自己責任に応じて周りの人びと(友人なのか、お隣さんなのか、行きつけのお店のおかみさんなのかはわかりませんが)公開していくことで、必要とするサポートを得られるようになるかも知れないと思いました。