「待つ」ということが、あなたにはできるか?



アーネにじぃじオンラインアカデミー用にchromebookを買いました。
それ以降、アーネはよく遊んでいるシルバニアファミリーのままごと遊び用に、折り紙で家具をつくる方法をYouTubeで検索しては、椅子や机やベッドをせっせと折っています。

ある日、アーネが折り紙をしているのを見て、ジージョが自分も折ると言ってアーネの隣に座りました。
アーネの真似をして折りますが、アーネのようには折れず、追いつくことができません。
アーネが折り方をやって見せ、「こうやって折るんだよ。先にいくね」と言って進もうとしますが、ジージョは見せられたようには折れず、「(自分が折り終わるのを)待ってよう!」と言います。

いつもならアーネはジージョを置いてけぼりにするかと思いきや、アーネは手を止めて待ってやり、ジージョには難しくてできてないところはアーネが折ってやっていました。

その出来事を目にしてから数日後、

「(アーネがああやって)待ってあげていたのがとても良かったと思うんだ」

ということをアーネに伝えました。

これは「褒めた」ということはなくて、アーネの「教え方」というか「接し方」が良かったとパパは感じたというニュアンスで伝えたつもりなです。
テストの点が良かったとか手伝をしたとか稽古事を頑張ったなどは「褒める」きっかけになりますが、「親が良いと思ったことの感想」は意識しないとなかなか伝えることを忘れてしまうなぁと思いました。

「待つ」のが大事ということは、アーネの休校期間中、アーネとジージョに対して、私の父がオンライン授業をしていたときにも感じました。

ジージョがひらがなのドリルを教材にしてページをめくろうとしたとき、父は

「表紙の次のページを見たい」

という要望を出しました。

これについて、こんなやり取りがありました。


じぃじ先生:
「次のページは?」と言って、次のページの内容を見せてほしいということを伝える。

ジージョ:
ページを見せるのではなく、ページに書いてある内容を読む。

じぃじ先生:
ジージョの読み上げをじっと聞く。


ジージョがページを読み上げ始めたとき、父は、

「違う。ページをカメラに向けて見せて」

と言うこともできたはずです。
しかし、それを遮らず聞いているということに、「ページを見せたらいいのに」と心が急きかけた僕は反省・感心しました。

ページの内容がわかるというのが根っこの目標なら、見せても読んでもどちらでも構わないと思うのか。
自分の伝え方は必ずしも自分の要望通りに相手に伝わらないという前提で教えているのか。
父は

「なんも考えてなかった」

と言うかもしれません。

自分の望み通りに相手に動いてもらうなら、

「ドリルを手に持って、パソコンのカメラに向かって見せて」と

細かく要求するのが筋です。

しかし人間という生き物は、自分の望みを叶えるためにそんなに細かく要求することはなく、いつもだいたいた大ざっぱに要求します。
その結果、自分の望み通りでないと、相手がわるいと感じてしまう人が多いですが、この二つのエピソードが立て続けに起こったことで、私には自分を省みる機会が与えられたと感じました。 

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