【往復書簡】うまい議論とへたな議論の違い

長尾さん、こんにちは前田です。
長尾さんから投げかけられた新しい問い―、「うまい議論とへたな議論の特徴」。

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これを考えるために、一つ前の問いの「議論と対話の使い分け」に遡って考えてみたいと思います。

長尾さんに教えて頂いた「チームの発達段階」に、フォーミング→ストーミング→ノーミング→パフォーミングがありますが、機能的・役割的に考えると、対話はフォーミングからストーミングへ。ストーミングからノーミングへ移行していくための「コミュニケーションの土壌」をつくるためのものかと思いました。
そして、議論はフォーミング・ストーミング・ノーミングのどの段階においても、モノゴトを「決める」役割を担っているものと思います。
ここで言いたいのは、対話を通じてつくったコミュニケーションの土壌・関係性は、議論がうまくいくための一要素ではないかということです。

でも、土壌や関係性だけで「うまい議論」ができるとは思えません。議論が「決める」役割を担っているのだとしたら、そこには「議論を進めるための技法・手続き」のようなものが必要なのだと思うのです。

ところで、僕がここで考えたい「うまい議論とへたな議論」の定義は、議論の勝者(自分の意見を通したり、相手の意見を論破したりした者)になるためのテクニックの優劣ではありません。ここには既に多くのノウハウがあり、僕もそれに詳しい訳ではないので、ここではあくまでプロジェクトを進めていく立場にある人間として、プロジェクトチーム及びそのステークホルダーとの関係における、「うまい議論とへたな議論」について考えたいです。

話を戻します。

この記事では、うまい議論とへたな議論の「うまい・へた」を、「勝者(論破した者)・敗者(論破された者)」のものではなく、チームにとっての「うまい・へた」として扱います。
チームにとっての「うまい議論とへたな議論」とはどういう状態か?
これは議論の「決める」という役割から考えたいと思います。

プロジェクトにおいて、「ある機能Aと機能Bのいずれを実装するか?」、「ある機能を実装するに、営業側は賛成。エンジニア側は反対」といった議論が起きるとします。

この時の「うまい・へた」を何で判断するか?となると、これまでの経験から、うまくいっていない議論には以下のような特徴があります。


  1. そもそも、決めることができない。先送りにする。
  2. Aの意見もBの意見も取り入れた玉虫色の意見にする。
  3. 意見が採用された側と採用されなかった側にモヤモヤや遺恨が残る。


これらのうち、1と2は現在のチームの所与のリソースから、チームがつくっているプロダクトやサービスを教授する顧客視点に立つことができれば、、自ずと決めるための「基準」を持つことができるので、この問題の難易度はけして高くありません。難しいなぁと感じるのは3です。

人の意見というものは、その人が置かれた立場、相対している顧客との関係性、その人の職能から見えるモノゴト、与えらえた目標及びそれに対するプレッシャーなど、様々な要素から出来上がっていると考えます。ただ純粋に意見だけがポンとあるのではない。

このことを概念図にしてみます。



この概念図はゲシュタルト心理学の情報の地と図の概念を元にしているものですが、分母にその意見を形づくった立場、背景、職能といったものがあり、分子にその人の意見がある。
私たちはどうしてもその意見がつくられたプロセスや環境といったものを無視しがちて、現れている意見にだけ注意がいきがちです。或いは、それを十分に説明する時間がない。それを聞くための時間を議論の場に設けていないとも言えるかも知れません。

でも、この分母を互いに見ないことには、なぜ眼前にいるこの人が、このような意見を言っているかを理解できず、互いの意見を主張し合うだけのものになってしまいます。そこで、相手の立場に立って・・・ということを求めるのですが、なかなか相手の立場になることは言葉ではわかっても実感を持ちにくい。それを促すものとして、意見Aの私と、意見Bの彼・彼女の分母を交換することをイメージしてみたらどうでしょう?

同じ「私」であっても、どんな分母を持つかによって、分子となる意見が変わり得ることを、ただ言葉で「相手の立場に立ちましょう」よりもイメージしやすくならないでしょうか。


昔読んだフィンランドの子ども向けの哲学本に、このような一節がありました。

哲学者にとっての勝者は、最良の議論。
相手の提案のほうが正しければ、自らの考えを変えることもありうる。
哲学者にとってたいせつなのは「だれが正しいか」じゃなく、「なにが正しいか」。

最良の議論。この記事で「うまい議論」とするものは、こうしたプロセスを経て、相手の意見を一度容れてみたり、互いの意見を、チーム・プロジェクトにとって「良い決定に至るための素材」として差し出し合うようなイメージを持つことで、「うまい議論」になるのではないかと思います。
そして、このように行われた決定は、自分の意見が採用されなかったとしても、一方的に論破された、説得された、言いくるめられたといった気持ちを抱きにくいのではないかと思います。

以上が、僕なりの「うまい議論」で、その逆に状態が「へたな議論」になるのですが、いかがでしたでしょうか?

さて、今回の僕の長尾さんへの問いは、議論して決めたことを実行したとして、それをどのように評価するのかという、「評価の仕方」についてです。
プロジェクトに従事していれば、必ず評価をしなければなりません。評価されることは避けられません。ファシリテーターという長尾さんの立場から、クライアントのプロジェクトをどのように評価されていますか?

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