「いいこ」になるためのリストってあるの?

ある日、アーネと私と妻の三人が居間で何かを話ていた時に、どういう文脈だったか覚えていないのですが、アーネが、

「アーネはいいこじゃないからな」

と口にしました。
その時は「そんなことないぞ」くらいしか言わなかったのですが、そういえばクリスマスの頃、「いいこにしていないとプレゼントがもらえないけど、アーネはいいこじゃないって言ってたっけな・・・」と、何か胸にひっかかりました。

その日の午後、アーネと二人で近所にあるスーパーのイートインスペースでおやつを食べている時、壁に近隣の子どもから募集したぬり絵が飾ってあるのを見ました。



アーネが、そのうちの何枚かの絵を、「これはじょうず」と言ったのを聞いて、

「どうなっていたら、じょうずなの?」

とたずねてみたところ、「しろいところがすくない」、「はみだしていない」などと答えました。

この時、「いいこじゃない」と言っていたことが唐突に思い出され、

「いいこって、どんなこ?」

と聞いてみました。
アーネは少し考えた後、「なかない。あきらめない」と答え、私はそれを受けて「他には?」ともう一度聞いてみると、「しゅくだいをちゃんとやる」と答えました。
(これは私が「すぐ泣かない」、「ピアノのれんしゅう・しゅくだいをやりなさい」と言っていることに起因しているのは想像に難くありません)

「じゃあ、いいこかどうかは、誰が決めるの?」と聞いてみると、「・・・」と沈黙したので、

「パパ?ママ?アーネ?」と聞いてみると、どれも違うと言います。
少し考えてから、「かみさま」と答えました。

私はこれらのことを聞いて、大人でも泣くし、アーネはラスカルの100ピースのパズルをあきらめずに最後までやっている。だからいいこじゃない、なんてことはない、と諭してみました。

その後、帰宅する途中で立ち寄った100円ショップで、アーネがおもむろに、

「運動会のバルーンが最初はうまくいかなかったけど、あきらめないで一生懸命練習したのっ」

と言ったので、「それはすごいことやん」と答えました。

その夜、二人で寝る時に、

「何かをやったらいいこ、なんてことはない。それに、いいこかどうかは、アーネもパパもママもきめるもんじゃないと思う。」
「いいこかどうかってよりも、ステキなこになれればいいんじゃないか」

と、自分でもよくわからないことを話したら、アーネは、

「じゃあ、アーネはすてきなこじゃないってことだ」

と言います。

「なんで?」と聞くと、「だって、じぶんでじぶんをすてきじゃないってきめつけてるから」と答えました。

これを聞いて、わが娘はなんと聡明なことかと泣きそうになりました(←親バカ)。


この話にはまだ後日談があります。
2週間ほどたった日の夜。風呂に入っていると、さかむけがいっぱいできているとアーネが言いました。
乾燥してるからな、と言うと、「あとは、わるいこだから」と口にします。
たしか、親不孝をしているとさかむけができるという迷信がありますが、誰がそんなことを吹き込んだのか、はたまた見聞きしたのか。

「わるいこってなに?」ときくと、「しらない」と言い、すぐしてから「すぐやらないとか」と言いました。
実は、風呂に入る前に、何かをしとくようアーネに言った時、返事も何もしないので、怒ってしまいました。それが糸をひいていたのかも知れません。
この時は、なんで自分を卑下するようなことを言うのかと疲れてしまって、つよく否定することをしませんでした。


ずいぶん長いエピソードになってしまいましたが、ここで考えなければいけないと思うのは、

「これとこれができるから、いいこ((或は、これとあれができないから、いいこじゃない)なんでものがあるだろうか?」

ということです。


古語としてのlistには、「欲する、望む、好む」といった意味があります。
何かの目的を達成したり、問題を解決するために行うことをリスト化することは必要なことと考えますが、そのリストを考え、書きだすのは誰なのかという問題があります。

「いいこ」になるためのリストの場合、それは親が書くものじゃないだろうというか、そもそも、「いいこ」という表現自体がおかしいんじゃないかという想いがあり、それで「ステキなこ」というような表現をしてしまいました。

親としては、「家のウチ・ソトで、大けが・死なないようにするための安全リスト」くらいでいいんじゃないかという想いがあります。

また、リストというものには果てがありません。
この10個、というふうに絞り込むのが非常に難しい。
新しいもの。似て異なったり、たいして変わらないものがドンドン出てきいます。

さらには、そのリストに拠って、ジャッジをする人間の好みや、その時々の精神や体調が影響を受けないはずがない。
それはジャッジされる側にとって不公平で失礼な話ではないか、とも思います。

リストというある種の型。基準であって、親が望むのは、その型(リスト)どおりの人間になっていることなんだろうか?
その子らしい人間になっていることなんじゃないんだろうかと、まぁこんな感じで自問自答が終わりません。

大事なのはリストじゃない。

じゃあ、なにかと問われると、わからない。

素のような。

エートスのような。

なんなんやろなぁ。

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