パパ、なんのために質問するの?

アーネが今春、小学校に上がります。
この数ヶ月、絵本よりも、文字が中心の、挿し絵が入っているお話を読むようになりました。
私が読み聞かせることもあれば、アーネが自分で読むこともあります。

この夏、『ながくつしたのピッピ』を読み聞かせしていて、小学校での学びについて考えさせられる一節がありました。



これまで学校に通ったことのないピッピが、友達のアンニカに誘われて小学校に行き、先生に、

「7たす5は、いくつですか?」

と質問されました。
それに対してピッピは一言、こう返したのです。

「あんた(先生)が知らないことを、なんであたしが教えなきゃいけないの?」

フツーなら、「いやいや、そういうことではなくてね」と、本来の質問の意図を伝えようとするでしょう。
でも、このピッピの返事を、読み聞かせの中でなんの意図もなく口にしてみて、確かに学校に行ったことのないピッピは、そう受け止めるかも知れない、と思ったのです。

先生にとっての質問と、ピッピにとっての質問は、意味と用途が違います。

先生にとっての質問は、
教師が教えたことを、生徒がわかっているかどうかを確認したいために使うもの。

ピッピにとっての質問は、
自分でわからないことを(私に)知りたいために使うもの。

質問というものを、そのように捉えているピッピにとっては、先生は「知らない人」にうつったのかもしれません。

ここで私は自問します。
自分は、学校で、先生からどんな質問を受けてきただろう?

学習指導要領に基づいて、教えなければならない内容が決められ、その責任を負っている教師の立場を鑑みれば、教室での質問は、その内容を覚えたか、理解したかを確認するために使うでしょう。(それは紙のテストとしても)

確認するための質問をするには、極論すれば、教師が全てを知っていなければなりません。
言い方を換えれば、教師は知っている、理解していることしか教えられなくなります。

本当にそうなんでしょうか?

教師も知らない、理解できないことが世の中にはあって、
教師も知らない、理解できないことは学校では教えないんだろうか?
教えられないんだろうか?
教えてはいけないんだろうか?

でも、世の中はどんどん知らない、わからないことが増えていく。
そうしたモノゴトを教えるのが無理なら、教師は生徒とともに「知らない人」になって、ともに学ぶことはできないんだろうか?

その時の「教師」の役割はどんなものなんだろうか?
アクティブラーニングやプロジェクトベースドラーニングでは、教師の役割はファシリテーターやコーチのようなものになる、といった言説を見聞きしますが、教え方の手法うんぬんが問われるよりはるか前ー、73年前(第1刷の刊行は1945年)に、ピッピはそれを問うたような気がします。

以上、親バカが最前線からお伝えしました。

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