教えるという行為は、善なる気質ではなく、欲・エゴなんじゃないの?
アーネ(5才)がジージョ(1才)に絵本を読んであげたり、歌って踊って見せるのを喜んで手を叩くのを見たりすると、
「あぁ、やさしいおねえちゃんになってくれているなぁ」
などと感じて、まこと自然と目じりがさがり、頬がゆるみます。
「ジージョ、いい?これはこうやるんだよ。」
などとアーネがジージョにお手本を見せて教える姿は、「やってみせ」の精神の幼い発露のようで、まことに感心いたします。
こうした姿を度々目にしていると、人が他者に対して何かを教えるという行為は、善なる気質なような気がして参ります。
私もワークショップなどでその道の方法を教える機会があると、できるだけ身になるものを持ち帰って頂きたいと、講座の準備に自然と力が入ります。
ただ一方で、本当に教えるというのは「善なる行為」なのか?という考えもあります。
それは、アーネが教えようとすることに対して、ジージョが興味を示さなかった時や、自分が期待していたような反応がなかった場合、
「やーめたっ」
と、教えることをさっさと止めてしまう姿を見たり、色々なプロジェクトやお付き合いの場面でおせっかいな教えたがりの人々に遭遇するようになったからだと思います。
それは自分にも同じことが言えて、
「(わざわざ時間を割いて)教えてあげているのに」
とか、
「(徹夜で資料をつくって)教えているのに」
とかいった気持ちを抱くことがあります。
それはどうも、教える(教えてあげる)ということが、最初は善なる気持ちからスタートしているであろうものの。徐々に教えたい欲の方が強くなってくるからなような気がするのです。
そう考えると、塾の先生などは子どもがテストでいい点とってナンボ、希望校に合格してナンボの世界ですから、善なる行為も教えたい欲もくそもなく、まさに職人的な感じがしてきますが、ただの親としてはそうした技能がある訳でもないので、子どもに「教えたいという欲」をいかに抑えて付き合うかが重要な気がしている、今日この頃です。