子どもはどうやって「他者と役割を共有する」ことができるの?

娘(アーネ)が3歳半くらいになった頃だったと思いますが、ふり遊び(ママゴト)をする前に、役割や場所などの「設定」を共有するようになりました。

絵本を部屋に立てかけて並べて、

「ここ図書館ってことね」

と言ったり。

娘がぬいぐるみを指して、

「これはアーネ(自分のこと)の赤ちゃんね。パパはアーネのパパ(夫)ね」

と言ったり。

時には、

「結婚してたんだけど、パパがしんじゃって、パパになってくれますか?」

なんていう、悲しき設定を用意してきます。

そして、その役柄のつもりで接したり、その設定に本気で付き合っていると、

「もう、もどったんだよ!」

とか、

「まねっこでやってんの!」と、

気ままに怒られることがあります。


で、その都度「あぁそうか、ごめんごめん」と謝って、こんなにも早く娘に謝らなければいけないのかと苦笑いする一方、この「役を演ずる」「ふりをする」という子どもの能力が、とても興味深く感じられます。


ママゴト自体は1歳の頃からやっておりましたが、その頃のママゴトは自分一人で完結していたものでした。
例えば、ぬいぐるみに紙おむつをつけて「ちっちー、ちっちー」とか言ったり、おもちゃのフライパンにどんぐりを置いてガチャガチャやって、私に「はい。どーじょー」と供してくれるようなものです。

それが3歳になると、脳みその何がどのようになってママゴトをする相手に設定を共有できるようになるわけです。
何故、自己中心的な役割(対人形)から、他者との相互的役割(対他者、対他者+人形)に発展していくことができるのか。

その原因と考えられるものの一つに、子どもがその役割を「それらしく振舞う」ことができるようになり、互いにそのらしさを共有・納得できる―というものがあるように思います。


これは、子どもがその役割を演じる時の「言葉」「表情」「立ち居振る舞い」といった言語・非言語両面をとらえて、その「らしさ」を表現しているものです。

このらしさをつかむ時の依代になっているものに「モノ(道具)」があります。


図書館ごっこなら貸し出し時のリーダーが欠かせません。
お医者さんごっこなら注射や聴診器。
買物ごっこだとレジといった具合です。

どの道具がそのごっこ遊びのらしさを最も表しているかと感じるのには個人差があります。
また図書館のリーダーそのものが一般家庭にあることは稀でしょうから、リーダーっぽい(リーダーらしい)形状をしたモノをリーダーに。マウスを聴診器に見立てて遊びます。

知育玩具を横に倒してレジに見立てるの図

そうしてママゴトが始まると、そのモノを依代としてそのママゴトに必要な言葉がどんどんとあふれ出てきます。

「◯◯にちまでにご、ご、ごへんきゃくくださいねー」
(※「ご、ご」というのは、「ご返却」という言葉が馴染んでいない、パッと思い出せないことによるどもりです)
「かーどをおかえししまーす」
「ぽいんとかーどはおもちですか?」
「さんばくえんのおかえしです」
(※三百円の言いまつがい)

保育園と家の中にいるだけでは決して身につかないであろう言葉がポンポンと出てくるのです。

ここで子どもの恐るべき能力にハタと気づかされる訳です。

・ママゴトをするには、それらしく振舞う能力が要る。
・それらしく振舞うには、その「らしさ」と「らしく振舞うためのモノ」をリンクさせる能力が要る。
・そのモノ自体がない場合、別のモノをそれと見立てる能力が要る。
・相互的役割のママゴトをするには、その見立てを他者と共有する能力が要る。


こうしたことを実現できる3歳か4歳の脳みそと心の働きに、感動と不思議な気持ちを禁じ得ません。


さて。

ある日、娘がママゴトで「きょうは、アーネがパパ(私のこと)をやるね」と言った時、
私のどんな「らしさ」をとらえて表現するのかと思ってワクワクしていましたら、
おもむろに携帯(のつもりのブロック)を取りだして、開口一番、


「もうしわけないですぅ~」


とペコペコあやまっていて、たいへんガッカリしました。



※余談ですが、ママゴトの相互的役割には、相手の立場に立って考えられるという効用があるのだそうです。
相手の立場といっても、幼児のうちは目に見える立ち居振る舞いくらいで、どの程度心の内が知れるのか懐疑的ですが、仮にそれが本当ならば、ママゴトを通じてたくさんの役割を体験し、多くの立場の人の視点に立てば良かろうと思う次第であります。

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