保育園と家庭のより良い関係づくりについて

娘が2歳半を過ぎた頃だったでしょうか。

箸で食事をしようとしたり、積極的に配膳の手伝いをしようとしたり。
牛乳をコップに注ごうとしたり、食器を洗おうとしたり。
何かにつけ自分でやってみよう、チャレンジしみようという姿が増えてきました。

こういう時、往々にして食べ物をこぼしてしまったりするのですが、失敗してしまうと必ずと言っていいほど泣きます。

ただ、こうした「泣き」に対しては不思議なほど寛容でいられるというか、チャレンジした結果がうまくいかなかっただけで泣く必要はないという考えが染みついているかのように、怒りもせずイライラもしないのです。
そうして、娘に対して泣いてしまった理由を伝え、泣かなくても大丈夫なのだと諭してきました。

この事を自覚した時、日ごろ怒ってばかりの自分にもこんな一面があったのかと新鮮に思い、今後もこうしたチャレンジの失敗には寛容でいたいと思うようになりました。

そんな折、娘が通う保育園の先生が、連絡帳に以下のような出来事を書いてくれていました。
昼食時、「ゔ・・・、ゔ・・・」と今にもゔわ~ん!が始まろうとしていました。見ると、卵焼きが床に落ちた事が原因です。落としたことは大したことじゃないコト。「たまご落ちたよ~」と言えばいいコト。拾えばOKと伝えると、すんなり納得。こぼれそうな涙を手でぬぐって、「たまご、おちちゃった」と教えてくれました。
これを読んだ私は、自分が上記のようなことを自覚していた時期でもありましたので、自分が意識して行動している事と、保育士の活動というか考えが一致している事に驚くと共に、「自分の娘への対応は間違ってはいないんだ」と安心したのです。
(それが娘の年齢期における保育園の一般的な成長過程に対するプログラムであるのかどうかはわかりません)

この家庭と保育園の保育方針が同じというのは非常な安心感を保護者に与えるものです。
と同時に、こうした保育方針は事前に教えてくれてもいいのではないかとも思いました。

と言うのも、小学校の教員であった私の母は、第1回目の学級通信で「学校教育と家庭教育」といった垣根を取り払い、子どもを大事に思い、育てていきたいという共通の目的をもった者同士が、意見を交わしあい、連携していく事の大切さを説いてきたのだそうです。



同じようなことが、予め保育園と保護者間で行われていれば、保護者もこれまで以上に安心と指針をもって育児できるようになるのではないかと思いました。
(保護者は明確な指針を持つことよりも、様々なゆらぎの中で育てていった方が良いのかも知れませんが。。)


こうした家庭と保育園での方針が娘に浸透してきた成果か、その約1か月後、朝食の用意をする際、食卓にきなこをこぼした私に娘が諭すように言いました。


「パパ。泣かないでね、後でふけばいいんだよ」。

まいった!

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